『逃げ若』もう1人の“逃げ上手”!太平記に見る軍神・楠木正成の「負けない戦い方」とは
『逃げ上手の若君』の主人公・北条時行といえば、その最大の武器は「逃げること」として紹介されています。
当時の常識で言えば、あるいは私たちのイメージでは、武士ならば敵に向かって戦うものと思いがちです。
そんな常識とは正反対の能力によって、時行は生き延び、再起を繰り返していきます。
そんな時行が作中で出会うのが、南北朝時代を代表する名将・楠木正成(くすのき・まさしげ)です。
史実上の楠木正成も、本当に「逃げ上手」だったのでしょうか。
正成は、不利な場所では戦わない。負けそうなら姿を消す。そして、敵が最も嫌がる場所とタイミングで再び現れる。
そんな戦い方を得意としていました。
楠木正成の「逃げ上手」の戦い方について見ていきましょう。
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楠木正成が歴史の表舞台に登場するのは、元弘元(1331)年の元弘の乱です。
同年、後醍醐天皇による倒幕計画が露見。鎌倉幕府は追討使を派遣して関係者の取調べを行う事態となりました。
後醍醐天皇は京都を脱出すると笠置山に籠城。これに呼応したのが、河内国の悪党である楠木正成でした。
正成は河内国の赤坂城に立てこもり、倒幕勢力としての旗幟を鮮明にし、鎌倉幕府軍を迎え撃ちます。
『太平記』では、正成の変幻自在の戦い方が描かれていました。
少数の正成軍は、大軍である鎌倉幕府軍に対抗するために奇策を採用。塀に仕掛けを施したり、大石や大木を落としたり、熱湯を浴びせたりして幕府軍を翻弄したと描かれています。
しかし、小さな城でいつまでも戦えるわけではありません。やがて兵糧が尽きる時が訪れました。
このとき、正成は城に火を放ちます。
普通なら、ここで「楠木正成討死」あるいは「自害」となるところでしょう。ところが正成は死にません。
『太平記』によれば、正成は敵方の遺体などを用いて城兵が焼死したように偽装。自らは城を脱出して幕府軍に「正成は死んだ」と思わせて姿をくらましたのです。
ここに、正成の「逃げ」の本質が見えてきます。
城を守っての討死より、自分と配下を生き残らせることを優先した結果でした。城は失っても、正成自身が生きていれば戦争は終わりません。
実際、正成はその後再び姿を現し、幕府軍との戦いを再開。当時の「城が落ちる=敗北」という常識に縛られず、次の戦場へ移るために城そのものを捨てる。
この柔軟さこそ、正成が恐ろしい武将だった理由の一つでもありました。
赤坂城の戦い(『大楠公一代絵巻』)。正成は幕府軍を翻弄した。
千早城では「逃げない」のに逃げ上手だった?最初の倒幕の戦は、後醍醐天皇の捕縛と倒幕軍の鎮圧によって終わります。
しかし乱から2年後の元弘3/正慶2(1333)年、正成は再び倒幕軍に参加。千早城の戦いで天下に名を轟かします。
『太平記』は、この時千早城を包囲した幕府軍を「百万騎」と表現(もちろん胡蝶です)。正成軍を千人未満と記します。
実数は数万人規模の幕府軍に対して、正成方の千人未満という数字については比較的実数に近いものでしょう。それでも圧倒的な兵力差です。
ならば、なぜ正成は負けなかったのでしょうか。理由は、敵の大軍とまともに戦わなかったからです。
千早城は金剛山地の険しい地形に築かれていました。大軍が一度に突撃できる場所ではなく、攻撃側は狭い斜面を登らなければなりません。
正成方は千早城の上から石を落とし、登ってくる幕府軍へ矢を浴びせました。
この「石礫による攻撃」は『太平記』だけの伝説ではありません。同時代史料の『楠木合戦注文』にも、幕府方の武士が山上からの石礫によって負傷した記録が残っています。
一方、『太平記』にはさらに派手な作戦も登場します。
甲冑を着せた藁人形を配置して幕府軍を誘い出す。
大梯子を城に架けさせ、敵兵が登ったところで油を注いで焼き落とす。
などです。
こうした逸話については軍記物語としての脚色を考える必要はあるでしょう。しかし正成が地形を利用して幕府軍を長期間足止めしたこと自体は確かなものでした。
つまり正成は、千早城では逃げていません。しかし戦い方そのものは徹底的に「逃げ上手」でした。
敵が望む正面決戦を避けて被害を最小限度にとどめ、狭い場所へ誘導し、大軍という長所を使わせない。
言い換えれば、正成は敵から逃げたのではなく、「敵が有利になる戦い」から逃げ続けたた戦い方でした。
一つの城に固執しない「城のネットワーク」
特に注目したいのが、楠木軍の戦争が一つの城だけで完結していない点です。
元弘3(1333)年には、赤坂・千早・吉野など複数の拠点で戦闘が展開されました。
正成たちは敵を自らの勢力圏へ誘導。複数の城との繋がりを利用して戦うことを心がけていました。
いわゆる一つの城を巨大化し、乾坤一擲の勝負に出る戦い方ではありません。
城が危険になれば別の拠点へ移動。必要であれば山中へ姿を消す。敵の軍勢を各地へ引きずり回しました。
当然、大軍である幕府軍の側には大きな負担が発生してきます。
従軍する兵士が多ければ、日数分の食糧も必要です。包囲期間が延びれば士気も低下していくものです。
ここで見るべきは、正成が重要視していたのが「敵を何人討ち取ったか」ではない点です。いわゆる敵にどれだけ時間と兵力を浪費させたかに重点を置いていたようです。
正成の籠る千早城を幕府軍が包囲している間、天下国家の情勢は大きく動いていました。
後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出し、足利高氏(のちの尊氏)が幕府から離反。新田義貞も挙兵し、鎌倉を攻め滅ぼします。
このとき、確かに正成は目的を達成していました。
正成は幕府軍そのものを千早城で全滅させたわけではありません。しかし、倒されなかったこと自体が大きな戦果になったのです。
悪党・平野将監入道。下赤坂城に籠って、千早城の楠木正成と共闘した。
「逃げるべき時」を知っていたからこその名将正成の戦争観を象徴するのが、建武3(1336)年の湊川の戦いです。
このとき、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏が九州から大軍を率いて東上。『太平記』では正成は正面から迎撃することに反対します。
このときの正成は、あくまで消耗戦を避ける点で後醍醐天皇に作戦を奏上します。
後醍醐天皇はいったん比叡山へ退き、わざと足利尊氏軍を京都へ入れる。すかさず正成は河内方面から淀川の交通を遮断して、敵の補給路を断つ。
これによって疲弊した足利尊氏らを新田義貞らと挟撃して撃破する、という作戦でした。
もちろん『太平記』の叙述である以上、そのまま実際の軍議の再現とは断定できません。
興味深いのは、『太平記』の描写が一貫して正成を、不利な決戦を避ける武将として描いている点です。
京都を守るために京都で戦う必要などない。
城を守るために城で死ぬ必要もない。
敵が来たから、その場所で戦う必要もない。
目的を達成するためなら、一度退くことも、拠点を捨てることも選択肢になる。最後に勝つために。
それが正成の戦略的「逃げ」でした。
しかし皮肉にも湊川では、正成が避けたかった正面決戦を命じられます。
正成はこれを受け入れて出陣。足利尊氏の大軍と正面からぶつかって、最終的には戦死を遂げました。
だからこそ、下赤坂や千早での戦いが際立つのかもしれません。
負ける戦場から逃げ、勝てる戦場だけを作る。その戦い方は、現代を生きる我々だからこそ学ぶべきものがあるはずです。
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