『豊臣兄弟!』信康見殺しの代償!なぜ徳川四天王・酒井忠次(天野ひろゆき)だけ家康から“冷遇”されたのか?

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『豊臣兄弟!』信康見殺しの代償!なぜ徳川四天王・酒井忠次(天野ひろゆき)だけ家康から“冷遇”されたのか?

徳川家康(松下洸平)を支えた「徳川四天王」の一人酒井忠次(天野ひろゆき)

軍事だけでなく外交や交渉にも長けた、まさに家康第一の家臣ともいうべき存在でした。ところが、その功績に比べると、なぜか酒井家の石高は他の四天王より少ないのです。

その背景には、徳川家最大の悲劇ともいうべき信康事件が関係していたのでしょうか。

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天野ひろゆき演じる酒井忠次(NHK「豊臣兄弟!」公式Xより)

「もう誰にも従わぬ」家康が秀吉に反旗を翻す

「もうよい。もうよいのじゃ。もう誰にも従わぬ。あとはこの父がやる」

『豊臣兄弟!』第34回「最強のライバル」で徳川家康がこのように言い放ちました。

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そして、織田信雄(山脇辰哉)と同盟を結び、羽柴秀吉討伐に動き出します。

もう誰にも従わぬと決意する家康(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

この言葉を直接引き出したのは、跡継ぎの長丸(後の秀忠)を人質に差し出せと秀吉(池松壮亮)・秀長(仲野太賀)に迫られたことでした。

しかし、その前に家康の脳裏に流れたのは、今川家での人質時代の辛苦をなめる日々、そして織田信長(小栗旬)の命による嫡子信康、正室築山殿の殺害シーンです。

そのように家康にとって耐えに耐えてきたことの積み重ねが、「もう誰にも従わぬ。」という確固たる決意に現れた、まさにこの回のクライマックスシーンでした。

このなかで筆者が心を動かされたのは、やはり信康の殺害場面。『豊臣兄弟!』ではこの衝撃的な事件にはほとんど触れませんでしたが、なるほど、ここで出してきたか、と思わず頷いてしまいました。

背後から心臓を貫かれ絶命し庭に倒れている信康を、屋敷から無表情に眺める家康。しかしこの時の家康は表情すら変えることができないほどの衝撃を感じていたのだろうと想像できます。

この築山殿・信康殺害事件は、1579年(天正7年)8月3日に起きました。事件の顛末に関してはここでは詳しくは述べませんが、岡崎城を任されていた信康が母築山殿と共謀して、武田勝頼と内通したことが信長に知れ、信長が家康に二人の処刑を要求したということです。

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徳川信康像(Wikipedia)

しかし近年では、家康が信長に要求されたためというより、家康と信康の対立が原因という説が主流を占めるようになりました。

その根拠として、『安土日記』などに、信長は信康を殺害しろとは断言せず、「家康の思い通りにせよ」と述べている点を挙げています。つまり徳川家側の事情で築山殿と信康を葬り去ったということでです。

しかしどうでしょう。そう考えるには少々無理な理由があるのです。それは武家社会にとって一番大切なこと、そう後継者問題です。

実はこの事件当時、家康の後継者たる男子は3人いました。そのうち成人していたのは信康ただ一人であったのです。残る二人は、二男秀康が4歳、三男秀忠に至っては生後わずか4カ月という状況でした。

徳川家康と後の秀忠となる長丸(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

秀康は家康が自分の子と認めないほど嫌っており、後継者としての可能性は全くと言ってよいほどありません。となると、後継者は秀忠一人となるのですが、当時のことですので4カ月の赤ん坊が無事に成長する保証はどこにもないのです。

このような状況で、家康が積極的に20歳になった後継者を殺すでしょうか。やはりそこにはやむを得ない事情、つまり信長の圧力があったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

ではなぜ将来を期待された信康は殺害されるにいたったのか、そのカギを握るのが徳川四天王の筆頭格・酒井忠次であったのです。

信康事件のカギを握った男・酒井忠次

ついに「打倒秀吉」に立ち上がった家康が出陣の触れを出すと、「御免仕る」という声とともに徳川家臣団が現れます

その最前列には、徳川四天王の4人である酒井忠次本多忠勝(夏生大湖)榊原康政(栗原類)井伊直政(阿久津仁愛)が居並びますが、その左端、他の3人に比べちょっとおじさんぽい人物が酒井忠次でした。

家康のもとに集まる徳川四天王(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

では、なぜその忠次が信康殺害のキーパーソンなのかを説明する前に、彼の経歴と徳川家での働きぶりについて簡単にお話ししましょう。

忠次は、1527年(大永7年)、松平氏の譜代の家臣・酒井忠親の次男として三河井田城に生まれました。元服してからは、家康の父・松平広忠に仕え、竹千代が今川家の人質として駿府に赴くときには、随行した家臣として酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)でした。

1556年(弘治2年)、信長の命を受けた柴田勝家(山口木馬也)が千余りの兵で福谷城(うきがいじょう)を攻めたとき、その城代であった忠次は松平勢を率いて、鬼柴田と異名を取った猛将勝家を敗走させています。

そして1560年(永禄3年)5月の桶狭間の戦いの後には徳川家家老となり、1563年(永禄6年)に起きた三河一向一揆では、酒井家の多くが一向一揆側に与したのに対し、忠次は家康に従っています。

そして1565年(永禄8年)、家康が吉田城を落すと、忠次は吉田城代として東三河の旗頭として統治を任されました。ちなみに西三河は石川数正(迫田孝也)が統治を任せられており、まさに忠次と数正が家康の両輪として機能していたことになります。

酒井忠次像/先求院所蔵(Wikipedia)

このような忠次の軍事的才能は信長にも認められました。それは武田勝頼との決戦、長篠の戦いのときでした。『豊臣兄弟!』では、この戦いはわずか5秒ほどのナレーションで済まされてしまいましたが、実はその軍議の席で忠次は重要な役割を演じていたのです。

『常山紀談』には、次のような話が記されています。

忠次は武田勝頼の本陣の後方に位置する鳶ヶ巣山砦を奇襲して落とすことを提案した。しかし信長は『そのような小細工は必要ない』と叱責した。ただ、諸将が皆退出すると密かに忠次を呼び寄せて、『先ほどは敵の間者が紛れているのを恐れて却下したが、お前の発案は理にかなった作戦だ。指揮はお前に任せるから、直ちに作戦を実行せよ』と命じた」

信長の命を受けた忠次は、すぐに鳶ヶ巣山砦を攻め、守備隊を壊滅し砦を占領します。背後に不安を抱えた武田勢は織田・徳川連合軍との決戦にのぞまざるをえなくなり、結果的に大敗北を喫したのです。つまり忠次の策が、長篠の戦い全体の勝敗を左右する大きな働きを果たしたのでした。

この忠次の戦振りに信長は、「忠次は前だけでなく後ろにも目があるかのような男だ」と絶賛したといわれています。

そもそも忠次は他勢力との取次役、つまり交渉役も任されており、武田信玄や信長との交渉も担っていました。だからこそ、信長は信康謀反の報を得た際、信頼していた忠次を安土城に呼んで、信康の動向について質問を行ったと考えられます。

織田信長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

信長の質問とは、「信康が本当に武田と通じていたか」その一点に絞られたのではないでしょうか。ここで忠次が「否」とはっきり答えれば、おそらくは信康の運命も違ったものになったと思われます。

しかし、少なくとも後世の逸話では、忠次は信康の謀反を明確には否定しなかったとされています。「信康様の謀反はありえない!」と断定しなかったといわれているのです。

それが信康の処断につながりました。こうして徳川家の後継者としてその将来を嘱望された信康は切腹して果てたのです。

なぜ酒井家だけが“冷遇”されたのか?

このときの家康の心情はいかばかりのものであったのでしょうか。おそらくは妻と子の両方を失うという事態に悲観に暮れていたことは間違いないはずです。そして信康の武田内通をはっきり否定しなかった、忠次のことをどう考えたのでしょうか。

実はこの後も忠次の立場には、何の変化もありませんでした。本能寺の変後の天正壬午の乱では奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻、小牧・長久手の戦いの際にも、森長可の軍勢を奥平信昌らと共に奇襲して敗退させています。

そして1586年(天正14年)10月には、従四位下・左衛門督に叙位任官されました。このような忠次の姿はまさに「徳川四天王筆頭」「家康第一の家臣」というべきものだったのです。

徳川四天王(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

ところが……。

忠次は1588年(天正16年)に隠居して、嫡子家次に家督を譲ります。このときの酒井家の知行は下総臼井で3万7千石でした。そしてその8年後の1596年(慶長元年)、忠次は京都で70歳の生涯を閉じるのです。

この間、酒井家には一切の加増がありませんでした。同じ四天王の井伊直政は上野箕輪12万石、本多忠勝は上総大喜多10万石、榊原康政は上野館林10万石、それと比べて酒井家の所領はなんと少ないことか

これは冷遇以外、なにものでもないでしょう。もしかしたら家康は、信康を見殺しにした忠次を心の底で恨んでいたのではないでしょうか。しかし大きな功績を挙げてきた忠次をすぐに冷遇したら、徳川家臣団を保てなくなる。そう考えるとこの酒井家の所領の少なさが理解できると考えるのです。

酒井忠次の嫡男・家次/関ヶ原合戦図屏風(Wikipedia)

そして徳川幕府は家康が死に秀忠の代になると、手のひらを返したように酒井家を優遇します。まずは上州高崎5万石に加増され、さらに越後高田10万石を経て、最終的には出羽庄内13万8千石で明治維新を迎えました。

史実は、家康が忠次を恨んでいたとは明確にしていません。しかも信康事件の後も、忠次は徳川家を全身全霊で支え続けます。

しかし、酒井家の石高だけは伸びませんでした。そこには家康だけが知る、忠次に対しての複雑な思いがあったと考えられるのです。

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※参考文献
川村真二著 『徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち』PHP文庫
本郷和人著 『戦国史のミカタ』 祥伝社新書

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