【豊臣兄弟!】他責思考のヤバいZ世代武将・秀次(山田涼介)の悪評は罠?史実が語る“悲劇の名君”との落差
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第35回『秀長誕生』。
山田涼介さん演じる三好信吉(のちの豊臣秀次)が登場しました。(以下、秀次で統一)
山田さんは、Hey! Say! JUMPのメンバーで、女性ファッション誌での「国宝級イケメンランキング」ADULT部門では1位獲得を連覇し殿堂入りするなど、華やかなイメージが強いアイドルです。
一方、日本アカデミー賞・新人俳優賞、日本映画批評家大賞・新人男優賞ほかを受賞をしたキャリアの持ち主でもあります。
今回は、金髪や茶髪のセクシーなイメージを封印し、キリッとした黒髪の若武者として登場。このドラマでの秀次は、王道プリンス系武将で描かれるのかなと思っていましたが……衝撃的なキャラクターでしたね。
ネットでは、「他責思考のヤバいヤツ」「戦国のZ世代?」「予想外過ぎる」という感想が続々書かれるほど、新しい感覚の秀次でした。
実際の豊臣秀次の人物像は、秀吉の後継者で最高権力者の「関白」でありながら、謀反人・残虐な殺生関白・女狂いなど、さんざんな悪評の持ち主でした。
けれども研究が進み、近年では「秀吉の悪行を隠すための作り話」「のちの創作」など悪評を否定する説が。
秀次は、天下人を目指す秀吉に振り回された挙句、最後は妻妾子息ともども39名ほど全員処刑されるという、悲劇的な最期を迎えます。
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豊臣秀次(三好信吉)(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)
母にとって秀次は「撫でたくなるほど可愛い子」秀次がまだ幼かった万丸だった頃の話。
第16回『覚悟の比叡山』で豊臣兄弟は、浅井長政(中島歩)軍と戦うため浅井の忠臣・宮部継潤(ドンペイ)の調略に乗り出しました。
継潤は調略に応じる代わりに「人質を差し出せ」と要求。兄弟には子どもがいなかったので、姉・とも(宮澤エマ)の長男・万丸に白羽の矢が立ったのでした。
「万丸を人質にすれば、戦いが終わるかも」と説得する小一郎(仲野太賀)に、「それがなんじゃ!!万丸に辛い思いをさせてまで多くの者のことなど考えられん!」と怒鳴り返し憤るともに、100%同感したのを覚えています。
その後、しかたなく人質の件を涙ながらに飲んだともは、万丸が愛する“屋敷の庭に咲く撫子の花”を刺繍した、手縫いの腹巻きを手作りします。
「お腹が弱い子なのでこれを」と継潤に渡したのが印象的でした。
この母の愛が込められた撫子刺繍の腹巻きが、今回ひさびさに再登場。
『小牧・長久手の戦い』で羽柴軍に加わるため、父・三好吉房(上川周作)と共に秀長を訪れた秀次に、ともは「あんたはお腹が弱いから」と腹巻きを付けようとしていました。
撫子は「我が子のようにそっと撫でたくなるかわいい花」という意味から名付けられたそうです。
母にとっては、幼い万丸だろうが成長して甲冑を身に付けた秀次だろうが、そっとお腹を撫でてあげたくなるほど可愛く愛しい子なのでしょう。
庭に咲いている撫子を愛していた万丸と母・とも(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)
まさかの「他責思考」の持ち主だったとはさて、総大将を務める秀次は、尾張白山林の陣にて余裕しゃくしゃく。
粥など食べて英気を養いつつ、皆を励まして気持ちよさそうなところ、突然、背後から徳川軍の奇襲を受けてしまいました。
「なぜだ、どこから現れた!」と狼狽える秀次。
父に引けと命じられるも「引けませぬ。武功をあげねばわしの面目が立ちません」と意地を張ります。
ほうほうのていで逃げ戻り、頭を下げる秀次に対し秀吉は、池田恒興(堀井新太)親子の戦死を告げつつも、「もっと早く引き際を見極めよ」と叱る程度でした。
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【豊臣兄弟!】信吉に甘すぎ!見えた秀吉・秀長の違和感…信長三傑・滝川一益の栄光と悲劇——第35回考察それでも、大失敗をした秀次が自責の念で落ち込んでいると思った秀長は、「あまり己を責めるのではない」と声をかけました。
それに対して、秀次のセリフは想像を遥かに超えたものでしたね。
「なぜ、わたくしが自らを責めなければなりませぬ?」
「え〜っっっ!!!」と驚いた人、多かったのではないでしょうか。
ここからの秀次は怖かった。
「敵の動きに気が付かず見過ごした者のせい。わしが責められるのは筋違いじゃ」と薄笑いを浮かべました。
さらに、「誰かは知らぬが…」と嘲る声色になり、す〜っと笑みを消し「負けたのもその者たちのせいじゃ」と、目が据わった表情に変わりました。怖っ。
(この急激にヒールになる豹変ぶり。山田さん上手い)
まさかの、他責思考!?
あっけに取られつつ秀長は「徳川が優れていただけ、誰も責められない」といいます。
秀次は頷いて笑みを浮かべ「さようでございますね…」といいつつも、背中を向けたときには、笑みは消えていました。
この衝撃的なキャラクター設定は、ネットでも大いに話題になりましたね。
絶対的プリンス感がありつつプライドが高く、危うさと脆さも感じさせる、そんな新しい秀次像でした。
秀次と秀長の関係性はどうなっていくのか。(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)
本当は激怒し秀次を叱責する手紙を書いた秀吉実際、天正12年(1584)小牧・長久手合戦にて、秀吉軍の策は徳川軍に看破され作戦変更。
数え17歳の秀次が『三河中入り作戦』(岡崎方面への別働隊侵攻)で一隊を率いたものの、徳川軍の急襲で白山林で敗走したことは、通説として有名です。
『太閤記』や諸記録に基づき、現代の歴史叙述・自治体史でも標準的に記述されています。
このとき、秀次はただの名目上の総大将で、実際の指揮は老練な将に依存していた面が強く「若年ゆえの経験不足が敗因」とも。
ドラマでの秀吉は、秀次に対してゆるめの叱責でしたが、実際はめっちゃ怒っていたようです。
奇襲したのは、徳川四天王の一人である猛将・榊原康政(栗原類)だったので、経験値の少ない秀次が負けてもしかたないとはいうものの、秀吉は面子を潰された思いもあったのかもしれません。
江戸時代前期の『武家事紀』(山鹿素行)には……
秀吉似書責三好秀次
九月廿三日、宮部善浄坊・八須賀右衛門ヲ似テ九箇篠ヲシルシ、秀次武義ノ覚悟ヲオコリラリ、秀吉ノ近親ニヨッテ諸人ニ無禮ヲナスコトヲ諷諷シ、且於長久手敗北ノ事を責、
という記述があります。
現代語に意訳すると…
「秀吉は書状を送って三好秀次を叱責した。
九月二十三日、宮部善浄坊(宮部継潤)と蜂須賀右衛門(蜂須賀正勝)を使者として、九箇条(五箇条とも)の文を記し、秀次に武人としての覚悟を起こさせるように促した。」
という意味合い。
そして、具体的に「甥であることを鼻にかけるな」「名将たちを討ち死にさせたのはとんでもない」「手討ちにすることもあり得る」などというような内容が書いてあったそうです。
ガチで怒った様子が伝わりますね。
けれども、秀次は跡取り候補。「将来は名代を継がせようかとも考えていた、これからの覚悟次第だ。自覚を持て」とも書いてあったとか。
「怒り心頭でも必要な存在」という思いだったのでしょうか。
順調に出世し秀吉の後継者になったのに
その後、天正13年(1585)、秀吉が紀伊雑賀征伐に出陣すると、秀次は叔父・秀長とともに副将を任され、秀長が総大将となった四国征伐では、副将として明石より3万を率いて出陣。
獅子奮迅の働きをします。小牧長久手での汚名を返上し、天正14年(1586)には秀吉から「豊臣姓」を授かります。
そして、順調に出世を重ねますが、天正19年(1591)、秀吉の側室・淀殿が生んだ鶴松が数えの3つで亡くなったことで秀次は秀吉の養子となり、正式な後継者としての道を歩み始めます。
けれども、その先は奈落の底が待ち構えていたのでした。
秀次と秀吉との関係は悪化、文禄4年(15965)謀反の疑いからの関白職の剥奪、高野山への追放、切腹の命令。そして、秀次の家族や家臣30人近くが処刑……。
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無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相このあまりにも残忍な処刑により、諸大名や民に広く不安が広がってしまい、豊臣政権の崩壊へと導いていったのでした。
暴走する秀吉のストッパーでもあった秀長は、天正19年1月22日に亡くなっています。この秀次事件、ドラマではどこまで描かれるのでしょうか。
ちなみに下の浮世絵は、月岡芳年による、高野山に蟄居させられた豊臣秀次。
おもひきや 雲ゐの秋の そらならて 竹あむ窓の 月を見んとは
(雲もない美しい秋の空だというのに、こんな竹格子の窓から月を見ることになるとは)
関白までなったのに、謀反の罪で追放された秀次の無念さが伝わってくるようです。
「今の秀次研究像」にあった新しい秀次
ドラマの時代考証・柴裕之先生によると、
「山田涼介さん演じる豊臣秀次とは?」
一言でいうと、秀吉から期待され、それに応えようとして頑張った人物。
抱いなる叔父を持ってしまったがゆえに、その叔父たちに期待され、その役割を果たさなければないませんでした……(中略)……秀長に対しての嫉妬や、ひねくれている部分はドラマのオリジナルですが、秀吉たちに対して「真面目な対応を取らねばならならない」と歩んでいる秀次像は、今の秀次研究像にもあっているかと思うので、その辺りにも注目してもらえればなと思います。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より
とのこと。
実は、秀次についての悪評は、豊臣秀吉の一代記など後世の記録が多く「秀吉が秀次一族に行った残虐な処分を正当化するための創作」と考えられるとか。
逆に一次史料(公家の日記など)からは、政務に励み、教養があり、能や茶の湯を嗜む理性的な人物像が浮んでくるようです。
また、秀次は、近江八幡での統治(八幡堀の開削など)や城下町の統制でも実績があり、有能な統治者とみなされています。
「期待に応えようと真面目に努力した、有能で教養ある後継者だったが、時代と権力の波に翻弄された悲劇の人物」というのが、現在の主流に近い秀次像となっているそうです。
この先、どのような新しい秀次の活躍が見られるのか楽しみですね。
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