『豊臣兄弟!』なぜ長宗我部元親は秀長に屈した?史実に残る2人の関係性と「鬼若子」のその後…
「姫若子」と呼ばれた少年は、やがて「鬼若子」と恐れられる戦国大名へと成長しました。
その武将こそ、四国をほぼ制圧した長宗我部元親(磯部寛之)。しかし1585年(天正13年)、羽柴秀吉(池松壮亮)の命を受けた羽柴秀長(仲野太賀)率いる大軍を前に、ついに降伏します。
今回は、『豊臣兄弟!』第36回「姫若子と鬼若子」に描かれた元親と秀長、二人の戦国武将の関係を史実をもとにひも解いていきます。
四国の覇者・長宗我部元親(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
秀吉とともに紀州征伐を行った秀長1584年(天正12年)11月、織田信雄(山脇辰哉)の単独講和がきっかけとなり、徳川家康(松下洸平)との間にも一応の和睦が成立すると、羽柴秀吉は天下取りへの新たな局面となる紀州、四国攻めに着手します。
この戦いで大きな役割を果たしたのが、数カ月前に「長秀」から「秀長」へと名を改めた羽柴美濃守秀長(仲野太賀)でした。
1585年(天正13年)3月、秀吉に屈した信雄が領国の伊勢へ戻ると、秀吉と秀長は大軍を率いて紀州征伐に乗り出します。
彼らのターゲットとなったのは、紀伊国北西部、現在の和歌山市周辺に本拠を置く雑賀衆と、紀伊国北部、現在の和歌山県岩出市にある根来寺の僧兵・根来衆です。
雑賀衆は、雑賀荘・十ヶ郷・中郷・南郷・宮郷などの地侍たちによる惣国的な連合で、鉄砲で武装した高い軍事力を持つことで知られていました。
また、彼らは海の民でもあり、海運や交易などを通じて豊かな経済力を持っていたと考えられています。
一方の根来衆は、広大な寺領を持つ根来寺を拠点とした僧兵集団です。彼らも鉄砲で武装し、強力な軍事力を有していました。
雑賀衆の指導者・鈴木孫市『太平記英勇傳』(Wikipedia)
秀吉は雑賀衆・根来衆とは以前から小規模な衝突を繰り返していましたが、ついにその平定を目指して大軍を動かしたのです。
羽柴軍はまず和泉国の雑賀衆・根来衆の諸城を攻めます。
このとき秀長は、城に籠城した根来衆に対して懐柔策を行ったことが『宇野主水記』に記されています。
それによると秀長は、「自分に仕える気がある者には還俗を認め、出家したままでいたい者には他所へ逃れる」ことを認めています。
つまり、無用な戦いを避け、できるだけ穏便に事を収めようとしたのです。
秀吉・秀長にとっては、石山本願寺の戦いや、その後の小競り合いを通じて、鉄砲を巧みに使う雑賀衆・根来衆の強さを身に染みて理解していたのでしょう。
秀長の彼らへの働きかけは、そのことを物語っているのかもしれません。
羽柴軍との間に激戦を繰り広げた太田城跡(Wikipedia)
和泉の諸城を落とされた雑賀衆・根来衆は、紀伊国の低湿地に築かれた太田城に立て籠もります。
城内からの射撃に手を焼いた秀吉は水攻めを行い、堤防の決壊などもあって攻略には約1カ月を要しました。
最後は蜂須賀正勝・前野長康らが説得にあたり、城主・太田左近らが自害することを条件に開城。
このとき、左近ら53名が自害したと伝えられ、こうして紀伊の平定がほぼ終わったのです。
秀長、四国攻めの総大将となる雑賀衆・根来衆を屈服させた秀吉は、休む間もなく秀長に四国攻めを命じます。
土佐国主の長宗我部元親は、もともとは織田信長(小栗旬)と誼を通じており、信長から四国の切り取り次第を認められていました。
しかし1581年(天正9年)頃になると信長は方針を変更し、元親には土佐一国の支配のみを認める通達を出します。
信長の変心を明智光秀に詰め寄る元親(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
これに反発した元親に対して、信長は三男・織田信孝(結木滉星)を総大将として四国征伐軍を組織しますが、1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変によって、この計画は立ち消えとなりました。
その後、元親は讃岐・阿波・伊予へと勢力を広げ、四国統一を目指します。
しかし、信長の遺志を引き継ぐ形で、長宗我部氏との対決路線をとった秀吉は、これを認めませんでした。
このような状況のなか、1583年(天正11年)末には、元親と秀吉との間で和睦が協議されたとする説もあります。
しかし交渉はまとまらず、紀州征伐が終わると、ついに秀吉は四国征伐へと乗り出したのです。
「鬼若子」元親を待っていた現実秀長は1585年(天正13年)6月、蜂須賀正勝(高橋努)、黒田孝高(倉悠貴)、宇喜多秀家、羽柴秀次(山田涼介)、さらに毛利輝元(濱正悟)配下の中国勢など、10万とも12万ともいわれる大軍勢を率いて四国へ侵攻しました。
羽柴軍主力として出馬し、元親との和平交渉を行った秀長と蜂須賀正勝(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
これに対し元親も土佐勢を中心に4万ほどの軍勢を動員して抵抗しますが、伊予・讃岐・阿波の諸城は次々と羽柴軍の手に落ちていきます。
元親は防衛拠点としていた阿波の白地城(はくちじょう)において、一度も決戦をせずに降伏することを恥辱と考え、「たとえ本国の土佐まで攻め込まれても徹底抗戦する」と主張しました。
しかし重臣たちの説得を受け、秀長による停戦条件を受け入れ、ついに降伏したのです。
羽柴軍との決戦を主張する元親(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
長宗我部氏は、それまで四国各地で連戦連勝を重ねてきました。
しかし、秀長率いる羽柴軍を前にすると、短期間で降伏せざるを得ませんでした。
もちろん、10万から12万ともいわれる羽柴軍と、これを迎え撃つ長宗我部軍との兵力差は大きかったでしょう。
しかし、元親敗戦の理由はそれだけではありません。
武具や馬具、兵糧など、羽柴軍と長宗我部軍との装備・補給力の差もまた、大きな要因だったと考えられます。
元親に降伏を説いた重臣・谷忠澄は、『南海治乱記』の中で、羽柴軍と長宗我部軍の違いを次のように記しています。
「上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。また、兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。国には兵糧がなく、とても上方とは比較にならぬ」
「鬼若子」と恐れられた元親が、秀長の大軍を前にして直面したのは、まさに戦国大名としての国力の差、そのものだったのです。
元親を滅ぼさなかった秀吉こうして四国の雄・長宗我部元親は秀吉の軍門に降りました。しかし、秀吉は元親を滅ぼすことまではしませんでした。
四国は秀吉によって国分けされ、元親には土佐一国が安堵されます。
阿波は秀長とともに元親との和平交渉を担った蜂須賀正勝、讃岐は仙石秀久と十河存保、伊予は毛利家の小早川隆景(山本浩司)らに与えられました。
馬揃えののち穏やかに語り合う元親と秀長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
ドラマでは第10回「信長上洛」で初登場した元親。その後も度々登場し、信長が行った京都馬揃えのときは、秀長と語り合い「旨い魚を食いに土佐へ来い」と親し気に誘っていたシーンは、元親の人柄がしのばれ印象的でした。
これから以降、元親は豊臣政権下の大名として九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵などに従軍します。
そして1599年(慶長4年)5月19日、伏見の屋敷でその波乱に満ちた生涯に幕を閉じました(享年61)。
四国統一という野望を掲げ、果敢に戦った長宗我部元親。しかしその前に立ちはだかったのが、天下統一へと突き進む、羽柴秀吉と羽柴秀長だったのです。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan