『豊臣兄弟!』に初登場!松岡広大が演じる吉川平助とは?豊臣兄弟の絆を引き裂く不祥事と非業の末路 (2/4ページ)

Japaaan

(※)伊賀越え:本能寺の変に際して、外遊中だった家康が伊賀路を越えて本国へ生還したエピソード。

天正13年(1585年)に羽柴秀吉(池松壮亮)が紀州を平定すると、秀長に仕えて紀伊湊の差配を任されます。

また7千石を与えられて雑賀城を築き、翌天正14年(1586年)に北山一揆が勃発した時は、秀長に従ってこれを鎮圧しました。

紀伊国は秀長の領地ではありましたが、当時は大和統治に注力しており、紀伊の統治は少なからず平助に託されていたようです。

劇中でも言及されていたとおり、紀伊では良質な材木が産出されました。平助は山奉行として材木の調達や管理を一手に担う存在となっていきます。

当時、畿内では秀吉が京都の大仏(方広寺大仏殿)などを建立しており、熊野の良質な木材需要が高まっていました。

平助はこれを高値で売りさばき、羽柴政権の財政に貢献したのはもちろん、役得とばかり私服も肥やしていたことでしょう。

不正がバレて処刑される

そんな天正16年(1588年)、平助が秀長の命によって熊野の材木2万本余を伐採し、大坂で販売した時に不正が発覚しました。

平助が材木の売却代金を着服していたと秀吉に密告する者があり、平介は同年12月5日に大和西大寺で処刑されます。

その首は京都洛中で晒しものとなり、監督責任を追及された秀長は、天下の面目を失ってしまいました。

秀長に対する秀吉の怒りは収まらず、年が明けて翌天正17年(1589年)になっても、秀長には新年の挨拶を許さなかったそうです。

秀吉がここまで怒っていた理由としては、秀長も平介とグルになって私服を肥やしていた可能性が考えられるでしょう。

領国内であれば平助が不正を働いても、秀長の権限で握りつぶすことが可能です。

それで密告者は、秀長にとってほぼ唯一の上位者である秀吉に密告したのでした。

不正が外部に漏れてしまっては、もはや握りつぶすこともできません。秀長としては、トカゲの尻尾切りで平助を見殺しにするしかなかったのでしょう。

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