【豊臣兄弟!】蜂須賀正勝(高橋努)の息子は徳川へ…父の志を継ぎ豊臣家滅亡まで見届けた家政の生涯【後編】

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【豊臣兄弟!】蜂須賀正勝(高橋努)の息子は徳川へ…父の志を継ぎ豊臣家滅亡まで見届けた家政の生涯【後編】

大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも秀吉の盟友として強い存在感を放った蜂須賀正勝(高橋努)。【前編】では、父から阿波一国を譲り受けて18万石の大名となった嫡男・蜂須賀家政(はちすか いえまさ)の若き日の武功や、徳島城築城・阿波踊りの誕生にまつわる領国経営の奮闘をご紹介しました。

※【前編】の記事:

【豊臣兄弟!】退場が迫る蜂須賀正勝(高橋努)には息子が!志を継ぎ秀吉を支えた嫡男・家政の生涯【前編】

粘り強い統治で父を安心させ、若くして「国持ち大名」となった家政。しかし、父の没後、彼の人生はさらなる波乱の渦へと飲み込まれていきます。

天下人となった秀吉の暴走、豊臣政権内部の醜い泥沼劇、そして徳川家康との接近——。豊臣への恩義とお家存続の狭間で、家政はいかにして激動の乱世を生き抜いていったのでしょうか。

高橋努が演じる蜂須賀正勝。大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより

朝鮮征伐でも活躍したが

蔚山城に立て籠もる清正たち(画像:Wikipedia)

家政は天正15年(1587年)の九州征伐(対 島津義久)にも従軍し、日向邦高鍋城(宮崎県高鍋町)攻めで武功を立てました。また天正18年(1590年)の小田原征伐(対 北条氏政・北条氏直)でも伊豆韮山城(静岡県伊豆の国市)攻めで福島正則(松崎優輝)と共に先陣を務め、武勲を挙げています。

かくして天下一統を成し遂げた秀吉ですが、その野望はとどまるところを知りません。文禄元年(1582年)から始まった朝鮮征伐では、文禄の役(天正20・1592年4月13日~文禄2・1593年7月9日)・慶長の役(慶長2・1597年1月14日~慶長3・1598年11月25日)とどちらも出陣したのです。まさに引っ張りだこと言えるでしょう。

特に南原城(ナムウォンソン)の戦いや蔚山城(ウルサンソン)の戦いでは、窮地に陥っていた加藤清正(伊藤絃)や浅野幸長(あさの ゆきなが)を救出する武功を立てました。

しかし泥沼化する朝鮮戦線の現状を憂えて、黒田長政(くろだ ながまさ)と共に戦線を縮小すべきと献言したことから、秀吉の逆鱗に触れてしまいます。

急きょ本国へ呼び戻された家政は、領国での蟄居と、蔵入地の没収という厳罰に処せられてしまいました。

この処分には石田三成(松本怜生)による意向があったと考えられ、家政は加藤清正や黒田長政らと共に三成へ遺恨を抱くようになります。

不当に貶められてしまった家政に対して救いの手を差し伸べたのが徳川家康(松下洸平)で、家政らが朝鮮半島において十分な武功を立てたことなど、秀吉にとりなしてくれました。

それがどれほど効果があったのかはともかくとして、家政らは家康に急接近することになります。

秀吉の死から関ヶ原まで

蜂須賀至鎮(画像:Wikipedia)

やがて慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、豊臣政権の重鎮であった前田利家(大東駿介)も慶長4年(1599年)に世を去ると、豊臣政権はいよいよ揺らぎつつありました。

家政はこれまでの怨みとばかり、加藤清正・浅野幸長・福島正則・黒田長政・藤堂高虎(佳久創)・細川忠興(ほそかわ ただおき)らと共に三成の襲撃を図ります(七将襲撃事件)。

また嫡男の蜂須賀至鎮(よししげ)と家康の孫娘である万姫(まんひめ。敬台院)の婚姻を進めるなど、明らかに親徳川派として活動するようになりました。

晩年の秀吉にはついていけなかったし、三成には恨みがあるし、そして家康に恩義と三拍子そろってのことでしょう。

一方そのころ、妹の糸姫が嫁いでいた黒田長政から離縁され、蜂須賀家へ返されてしまいました。どういう訳かくわしくわかりませんが、それからというもの、蜂須賀家と黒田家は役120年間にわたって断交したということです。

豊臣政権内の分裂はいよいよ深刻化した慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝を討つために兵を起こすと、家政は至鎮を従軍させて自身は大坂城に残りました。

これは病気が理由だったとも、家康の不在を守るためだったと言われています。しかし中国地方から毛利輝元(濱省吾)が大坂城へ入ったため、親徳川派の家政は身柄を拘束されてしまいました。家政は豊臣秀頼(秀吉遺児)に阿波一国を返上して出家し、高野山へ上ります。

やがて家康が関ヶ原の合戦(対 石田三成ら)で勝利すると家政は呼び戻され、本領を安堵つまり阿波一国を返してもらったのでした。

しかし家政は現役に復帰する意思はなく、至鎮に家督を譲って隠居したということです。

豊臣家の終焉を見届ける

蜂須賀忠英(画像:Wikipedia)

かくして第一線こそ退いた家政でしたが、まだ若い至鎮を補佐して阿波国の経営に尽力しました。

水争いの裁定や検地の実施など、先ほど紹介したとおり、阿波国内はまだまだ政情が安定していなかったのです。

そうこうして歳月は流れ、慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発すると、家政は豊臣秀頼から加勢を求められました。

かつて色々あったけれど、やはり故太閤様(秀吉)には御恩もあるし、このまま豊臣家が家康に滅ぼされてしまうのは忍びないものです。

家政はどうせ老い先短いから、と秀頼に加勢しようと思いましたが、至鎮の反対もあって断念しました。自分一人の私情によって、蜂須賀家を潰してしまう訳にはいきません。

そこで家政は、自身が人質となって江戸に向かい、徳川家に対する忠義を証明したのでした。

至鎮も大坂の陣で武功を立てたため、豊臣家の滅亡後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、阿波国とあわせて25万7千石となります。

かくして戦乱の世が終焉を迎えてからも、家政・至鎮は領国経営に心を砕き、元和4年(1618年)には御壁書二十三箇条を制定しました。これは今まで個別に発していたお触れや領国経営の原則をまとめたもので、一説には至鎮が定めたものとも言われます。

これでそろそろ引退かと思ってた矢先、元和6年(1620年)に至鎮が35歳という若さで急死してしまいました。

家督を継いだ嫡男の蜂須賀忠英(ただてる。家政から見て嫡孫)はまだ幼いため、家政はを後見し、忠英が成人する寛永4年(1627年)または病床に臥せる寛永6年(1629年)まで政務を取り仕切ります。

引退に際して、先年にまとめた御壁書二十三箇条を補完する裏書七箇条を制定し、藩政の指針を確立しました。

はるか遠い昔となった戦国乱世を知る数少ない長老として、家政は第3代将軍・徳川家光の御伽衆として召し出されることもあったと言います。

そして寛永15年(1638年)12月30日、家政は81歳で世を去ったということです。

終わりに

蜂須賀家政(画像:Wikipedia)

今回は、蜂須賀正勝の嫡男・蜂須賀家政の生涯をたどってきました。父に劣らず波乱万丈で、胸が熱くなった方も少なくないのではないでしょうか。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」ではたぶん割愛されると思いますが、こうした次世代の武将たちについても、その活躍に注目していきたいですね。

※【前編】の記事↓

【豊臣兄弟!】退場が迫る蜂須賀正勝(高橋努)には息子が!志を継ぎ秀吉を支えた嫡男・家政の生涯【前編】

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※参考文献:

石躍胤央他『徳島県の歴史』山川出版社、2007年6月 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年1月 藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典 四』新人物往来社、1986年7月 渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』草思社、2021年1月

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