秀長に毒殺された!?『豊臣兄弟!』で割愛の紀州攻めで徹底抗戦を貫いた湯川直春の悲劇の末路 (2/3ページ)
しかしその後もずっと信長に臣従したかと言えば、そういう訳ではありません。
天正元年(1573年)に信長と対立していた室町将軍・足利義昭から協力を要請された直春は、これを受け入れました。
天正4年(1576年)に石山本願寺が信長に勝利した際(木津川口の戦い)は、本願寺に対して祝勝の書状を送っていることから、本願寺に与していたことがわかります。
その後、直春が信長と接近することはなく、根来衆(ねごろしゅう)や雑賀衆と共に織田政権と敵対しました。
秀吉の紀州攻めに立ち向かうやがて本能寺の変で信長が横死を遂げ、織田政権を羽柴秀吉が乗っ取ってからも、直春の敵対姿勢は変わりません。
天正12(1584年)3月に秀吉と徳川家康が対決すると(小牧・長久手の戦い)、直春は家康に呼応して雑賀衆・根来衆と共に紀州で挙兵。羽柴政権の本拠地である大坂を脅かしました。
やがて家康が秀吉と和睦し、小牧・長久手の戦いが終結すると、秀吉は翌天正13年(1585年)3月に紀州攻めを決定します。
これに対して直春は徹底抗戦の構えを見せますが、白樫(しらかし)氏や神保(じんぼ)氏は秀吉に敵わぬと見て降伏してしまいました。
さらには直春の娘婿であった玉置直和(たまき なおかず)までも秀吉に降伏してしまいます。
直春は直和を討つべく兵を差し向けましたが、秀吉の派遣した仙石秀久(せんごく ひでひさ)や中村一氏(かずうじ)らの軍勢に阻まれました。
羽柴勢の反攻を防ぎかねた直春は本拠地の紀伊亀山城に火をかけ、熊野山中の近露(ちかつゆ。和歌山県田辺市)へと撤退します。
