秀長に毒殺された!?『豊臣兄弟!』で割愛の紀州攻めで徹底抗戦を貫いた湯川直春の悲劇の末路 (3/3ページ)

Japaaan

4月1日に仙石秀久・藤堂高虎・尾藤知宣(びとう とものぶ)らが近露へ迫りますが、直春はこれを潮見峠で撃退しました。

劣勢ではあっても地の利を活かし、戦いは7月にまでもつれ込みます。そして直春と羽柴勢は和睦しました。本領安堵が条件だったと考えられます。

秀長に毒殺される?

かくして平和を取り戻した直春ですが、それも永くは続きませんでした。

翌天正14年(1586年)2月に直春は大和郡山城(奈良県大和郡山市)を訪れ、羽柴秀長と謁見します。

すると秀長は直春を大和郡山城に留めおきました。直春は困惑したでしょうが、下手に動く訳にもいきません。

そして月日は流れて同年7月、直春は毒殺されてしまったそうです(諸説あり)。

直春の子である湯川丹波守(湯川勝春または湯川光春)は秀長家臣となって3千石の知行を与えられますが、湯川家の本領は召し上げられてしまいました。

やがて天正19年(1591年)に秀長が世を去り、文禄4年(1595年)に秀長の婿養子であった羽柴秀保(ひでやす。秀長の甥で姉ともの三男)も世を去ると、大和大納言家(秀長の家系)は断絶します。

その後は浅野氏に仕え、元和5年(1619年)に安芸広島へ転封となった浅野長晟(ながあきら)に従って安芸国へ移住したということです。

終わりに

今回は秀吉・秀長の紀州攻めに立ち向かった国人・湯川直春について、その生涯をたどってきました。

本作では割愛されてしまいましたが、こういう地味なマイナー武将の武勇伝は、胸が熱くなるものです。

これからもこうした人物を発掘・紹介していきたいと思います。

※参考文献:

戦国合戦史研究会 編『戦国合戦大事典 第四巻 大阪 奈良 和歌山 三重』新人物往来社、1989年3月 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 人物』和歌山県、1989年3月 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 中世』和歌山県、1994年3月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「秀長に毒殺された!?『豊臣兄弟!』で割愛の紀州攻めで徹底抗戦を貫いた湯川直春の悲劇の末路」のページです。デイリーニュースオンラインは、野田・福島の戦い、玉置直和、湯川直春、湯川直光、湯川景春、カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る