『豊臣兄弟!』蜂須賀正勝が龍野城主になった裏で…城を奪われ“天空の城主”となった赤松広秀の悲劇の最期
読者の皆さんは、『豊臣兄弟!』第25回「変事の予兆」(6月28日放送)の冒頭シーンを覚えていますか。
あの蜂須賀正勝(高橋努)が、なんと中国経営の要衝、播磨・龍野城の城主になりました。
龍野城の普請(改修)を正勝に任せようとする羽柴秀吉(池松壮亮)に対し、正勝は黒田官兵衛(倉悠貴)の方が適任だと言い張ります。
しかし秀吉が、「蜂須賀正勝、そなたを龍野城主とする」と正式に発表すると、その場にいた羽柴秀長(仲野太賀)や前野長康(渋谷謙人)らが皆そろって喜び、正勝を祝福しました。
感激した正勝は、「この先、何があろうとわしは、殿の力になり申す!」と誓います。
見た目に反して愛されキャラの正勝が、念願の城主になったこの場面に、『豊臣兄弟!』ファンは、盛り上がったことでしょう。
しかし、正勝の栄達の陰で、一人の戦国武将が奈落の底へ落とされたことは、あまり知られていません。
その武将の名は、赤松広秀(あかまつひろひで)。別名・斎村政広(さいむらまさひろ)です。
そう、彼こそが、正勝が秀吉から与えられた龍野城の前城主でした。
龍野城を失った赤松広秀、その後の運命とは
今回は、結論から申し上げましょう。
本稿で取り上げる赤松広秀は、律儀で正直な人柄と、なによりも家臣や領民を大切にした領主として伝えられています。
いや、戦国武将のなかでも、ひときわ領民を思いやった人物だったと断言できるのです。
しかし広秀の最期は、そのような生き方が報われることのない、あまりにも悲劇的なものでした。
豊臣兄弟とその仲間たちの栄達の陰で、善良な男が戦国という時代の大きな渦にのみ込まれていったのです。
赤松広秀の曾祖父赤松政則。有力な守護大名として中央にも勢力をもった(Wikipedia)
広秀は、播磨・備前・美作などを支配した有力な守護大名・赤松氏の一族として、1562年(永禄5年)に生まれました。
しかし室町時代末期になると、名家・赤松一族は播磨をはじめ中国地方各地に分散し、それぞれの系統が生き残りを図るほど衰退してしまいます。
戦国時代、播磨は西の毛利氏と東の織田氏という二大勢力が激突する最前線でした。
広秀は当初、別所長治(下川恭平)らとともに、織田信長(小栗旬)と誼を通じていましたが、やがて他の播磨衆と同じように、その去就をめぐって難しい立場に置かれます。
そのような状況のなか、1577年(天正5年)、信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨へ侵攻してきました。もちろん、龍野城も織田軍による攻撃の対象となります。
このとき広秀は抗戦することなく龍野城を明け渡し、蟄居したうえで旧領安堵を願い出ましたが、秀吉はこれを認めませんでした。
そして龍野城は、秀吉によって蜂須賀正勝に与えられたのです。
広秀にとってみれば、先祖伝来の領地を失っただけに、屈辱的な出来事だったに違いありません。
しかし広秀は、秀吉に敵対する道を選びませんでした。むしろ正勝の与力となり、中国攻めや四国攻めなどに従軍して、秀吉のために懸命に働いたのです。
8年後、但馬の要衝・竹田城主に返り咲く広秀は秀吉を恨むことなく、羽柴軍の一武将として戦功を重ねます。そして1585年(天正13年)、龍野城を失ってから、およそ8年の年月の末、ついに城持ち大名に返り咲きました。
与えられたのは、現在「天空の城」として知られる但馬・竹田城を中心とする2万石余の領地でした。
石高こそ高くはありませんが、竹田城は南但馬を押さえる重要な拠点で、なにより秀吉が経済基盤の一つとした生野銀山へ通じる交通路を押さえるうえでも重要な城でした。
そのような要地である竹田城を広秀が与えられたのは、秀吉の信頼の証であった可能性が高いのです。
そして1587年(天正15年)、広秀は宇喜多秀家の妹を娶り、宇喜多家と縁戚関係を結びます。この婚姻は秀吉の命によるものとも伝えられ、これも豊臣政権のなかで広秀が大きな信頼を得ていたことをうかがわせます。
さらに広秀は秀吉の赤母衣衆にも抜擢され、小田原攻めや朝鮮出兵などにも参加しました。龍野城を失い、一度は領主としての地位を失った男が、豊臣政権を支える大名へと復活したのです。
武功だけではない、領民に慕われた「仁政の主君」各地の戦いで軍功を挙げ、大名に返り咲いた広秀ですが、彼の優れた点は武功だけではありませんでした。
その最大の美点は、領民のことを考え、領内の産業や農業を振興したことにあります。
竹田城主となった広秀は、城下で養蚕業や漆器産業を奨励しました。また、治水にも力を入れ、領内の農業生産を高めます。
さらに、領民の負担を軽くするため、当時としては画期的な「三公七民」という、年貢を低く抑えた政策を行ったともいわれています。
広秀が竹田領を治めたのは、およそ15年間。これは、決して長い期間ではありません。
それでも広秀は、領民から「仁政の主君」として慕われたと伝えられ、現在も竹田周辺では「赤松さん」と親しみを込めて呼ばれる存在なのです。
関ヶ原で運命が暗転。なぜ広秀は切腹させられたのかところが、広秀の運命を大きく変えてしまう出来事が起こります。それが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでした。
豊臣大名であった広秀は西軍に属し、徳川家康(松下洸平)に味方した細川幽斎(亀田佳明)が籠もる丹後田辺城攻めに参加しました。
ところが関ヶ原本戦では、あえなく西軍が敗北。ここで広秀は、旧知であった因幡鹿野城主・亀井茲矩の取り成しを受け、東軍側に転じて鳥取城攻めに参加します。
ところが、この行動が広秀の運命を暗転させました。
鳥取城攻めの際に城下を焼き払ったことが、家康から問題視され、広秀はその責任を問われることになったのです。
この焼き討ちについては、茲矩が命じたものだったという説もあります。つまり、鳥取城攻めを主導した茲矩が城下への放火を行い、家康の責めを逃れるために、責任を広秀に負わせたのではないか、という見方です。
そして1600年(慶長5年)10月、広秀は家康の命によって自害、享年39でした。
敗戦直後に西軍から東軍へ転じたにもかかわらず、なぜ広秀は誅されたのでしょうか。
その背景には、生野銀山をめぐる政治的な事情があったのではないか、という説があります。
関ヶ原ののち、家康は各地の金山・銀山などの鉱山を直轄領とし、生野銀山もその一つでした。
そのため、一説には生野銀山を手に入れたいという家康の思惑を察した茲矩が、広秀を陥れたのではないかともいわれています。
「唯一人間らしい心をもっている」と評された広秀広秀の死後、彼が丹精を込めて整備した竹田城も廃城となりました。現在残る壮大な石垣の多くは、広秀の時代に整備されたものと考えられています。
最後に、赤松広秀の人となりを伝える逸話を紹介しましょう。
文化人としても知られた広秀は、近世儒学の祖とされる藤原惺窩(ふじわらせいか)と交流し、その活動を援助したと伝えられています。
秀広が庇護した藤原惺窩。徳川家康に進講し、徳川三百年の歴史に大きな影響を与えた(Wikipedia)
また、朝鮮出兵の際に、藤堂高虎(佳久創)の軍に捕らえられ、日本に送られた儒者・姜沆(カンハン)とも、惺窩を介して交流しました。
姜沆の記した『看羊録』には広秀について、「日本の将官は、すべて盗賊である。しかし、ただ広秀だけは人間らしい心をもっている」という趣旨の言葉が残されています。
これは、戦国の武将たちを客観的にみていた朝鮮の儒者から、広秀の人柄がどのように映っていたのかを知るうえで、とても参考になります。
儒学を尊び、領民を思いやり、産業や学問を奨励した人物として伝えられている赤松広秀。だからこそ、その死後400年以上が過ぎた現在でも、竹田の地ではその名が語り継がれているのでしょう。
竹田城下にある広秀の菩提寺・法樹寺(但馬ふるさとづくり協会)
『豊臣兄弟!』では、蜂須賀正勝が龍野城主となったことが、仲間たちから祝福される喜ばしい場面として描かれました。
しかしその陰には、龍野城を追われ、懸命な働きの末に竹田城を築き上げた広秀の存在があったのです。
いま竹田城は「天空の城」と呼ばれ、山頂部の石垣を包み込むような雲海の風景が大変な人気を集めています。
もし竹田城跡を訪ねる機会があれば、ぜひ赤松広秀という武将のことを思い出していただきたい。
そこには、激動の時代を生き、人々の記憶に残る活躍をしたにも関わらず、最後は非業の死を遂げた一人の武将の生き様が、今も静かに残されているのです。
※参考文献
渡邊大門著 『赤松氏五代: 弓矢取って無双の勇士あり』 ミネルヴァ日本評伝選
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan