『豊臣兄弟!』「夢のまた夢」あの辞世の句を生んだ秀吉の感性|師・細川幽斎と紡いだ亡き子への想い
「露と落ち 露と消えにし我が身かな……」
豊臣秀吉(池松壮亮)が遺した有名な辞世の句。実はこの繊細な感性の裏には、彼が「生涯の師」と仰ぎ、和歌の奥義を学んだ細川幽斎(亀田佳明)の存在がありました。
亡き幼子(鶴松)を想い涙ながらに詠んだ和歌と、それに添えられた師の美しい返歌。
「成り上がりの天下人」はいかにして歌を愛し、師と深く心を通わせるようになったのか。今回は、大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目の集まる秀吉の「知られざる歌人としての素顔」と、師との絆に迫ります。
池松壮亮が演じる豊臣秀吉(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
武将であり文化人でもあった細川幽斎豊臣秀吉の没後のことになりますが、細川幽斎をめぐっては、興味深い出来事がありました。
1600年(慶長5年)9月に関ヶ原の戦いが起こると、幽斎は東軍、すなわち徳川家康(松下洸平)に味方することを決め、丹波田辺城に籠城します。
その兵数はわずか500人。当時の細川家の所領は丹後半国など、およそ12万石で、動員兵力は4,000人ほどでした。
しかし、その多くを嫡男・忠興(幽斎は隠居していたため、細川家当主)が、家康の会津征伐に参加するために連れ出していたため、このような寡兵での籠城となったのです。
西軍は田辺城に、小野木重勝・前田茂勝らが率いる1万5,000の大軍を送ります。そして7月19日から、田辺城攻城戦が始まりました。
ちなみに、西軍の人質になることを拒絶した忠興正室のガラシャが、大坂の細川屋敷で自害するという悲劇が起きたのも、このときです。
幽斎が指揮する籠城勢は激しく抵抗し、戦いは約2か月におよぶ長期戦となります。平城とはいえ、周囲を水田や沼沢地に囲まれた田辺城は、要害性に富んだ城郭でした。だからこそ幽斎は、居城の宮津城を放棄して田辺城での籠城を選んだのです。
しかし、攻め手の西軍は約30倍。城攻めでは、攻撃側が守備側の3倍から10倍程度の兵力を必要とするというのが、当時の軍事上の常識でした。
それほどの兵力差があるにもかかわらず、田辺城が持ちこたえたのは、城兵の奮戦以外にも理由があったのです。それは、攻囲軍のなかに幽斎を知る武将が多く、積極的な攻撃をためらわせる事情があったのです。
実は幽斎には武将としての顔以外にも、「古今伝授の伝承者」という文化的な顔がありました。
古今伝授とは、『古今和歌集』の解釈や歌学の奥義を師から受け継ぎ、次代へと伝えるものです。
室町時代中期に美濃篠脇城主・東常縁(とうのつねより)から連歌師の宗祇へ伝えられ、その後、三条西実枝(さんじょうにしさねえ)から幽斎へと受け継がれていました。
田辺城を攻める西軍諸将のなかには、幽斎の歌道の門人も多く、古今伝授の重要な伝承者である幽斎を攻めることがためらわれたともいわれます。そのため、攻城は消極的なものとなり、それが長期戦の一因になったと考えられています。
そして朝廷も、幽斎が討ち死にすることで古今伝授が途絶えることを危惧しました。
秀吉も幽斎に和歌を学んでいた幽斎の弟子であった八条宮智仁親王と、その兄である後陽成天皇は、使者を遣わして田辺城を開城するよう説得しましたが、幽斎は拒絶しています。
ただし幽斎は使者を通じて、『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上しました。
ここからは、自分が死んでも古今伝授を後世に伝えるという、武将として、そして文化人としての幽斎の覚悟が伝わってくるのです。
田辺城籠城戦は朝廷が動いたこともあり、関ヶ原の戦いの2日前となる9月12日、勅命による講和が結ばれ、幽斎の命は助かりました。
そのような幽斎の門人の一人に、『豊臣兄弟!』の主人公の一人、豊臣秀吉(池松壮亮)がいました。
結論から言うと、秀吉は和歌を愛し、幽斎を師として本格的に歌道を学んだ歌人でもあったのです。
秀吉が幽斎から本格的に和歌を習い始めたのは、1585年(天正13年)に関白に任じられた頃からとされています。
よく秀吉は「人たらし」と称されますが、それは、人の心情を機敏に捉えることのできる繊細な感性を持っていたともいえるでしょう。そうした繊細な感性によって、秀吉はもともと「歌詠み」としての素質を持っていたのかもしれません。
秀吉が天下人として君臨するようになると、朝廷や公家との交流も増え、「秀吉文化サロン」ともいうべき文化的な場が形成されていきました。
ここでは、秀吉を中心に、彼を取り巻く武将たちの間で作歌が盛んに行われたのです。その主なメンバーは、幽斎のほか、木下長嘯子や小堀遠州らの武人、そして秀吉の祐筆を務めた松永貞徳などでした。
天下人・秀吉が詠んだ和歌、その実力とは?「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」
この和歌は、秀吉の辞世として知られる一首です。その意味は、「我が身も露のようにこの世に生まれ、露のように消えてしまう。振り返れば、難波での出来事も、夢の中で夢を見ているようなものだった」というものです。
「万代(よろずよ)の 君が行幸になれなれむ 緑木高く繁る軒の玉松」
これは1588年(天正16年)4月、聚楽第に後陽成天皇を招いて饗応した際に詠んだ一首です。その意味は、「万年にわたって、我が君の行幸を何度も迎えることを常とするだろう。緑に高く繁る軒端の松は」といったところでしょう。
古典を基本にした作歌を行った秀吉(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
何事にも度を外した派手好きというイメージがある秀吉。しかし、和歌の世界においては、師である幽斎が伝えた古典の教養を大切にし、古典文学を典拠とした歌作りを行っていたのです。
最後に、秀吉と幽斎が、歌人としてかなり高度なやり取りをしていたことがうかがえる逸話を紹介しましょう。
それは、1592年(文禄元年)正月16日のことでした。
秀吉から幽斎のもとに、祐筆を通じて一通の手紙が送られてきます。
そこには、次のように記されていました。「太閤さまは、前年に亡くなった長男の鶴松君と夢の中でお会いになった。目が覚めたとき、炬燵の上には涙が落ちて水たまりになっていた。そこで、この一首をお詠みになったのだ。御返歌をいただきたい」
その和歌とは、「なき人の かたみの涙 のこし置きて 行方もしらず 消えはつるかな」でした。
「いまはこの世にいない愛しい人が夢に現れた。しかし、その姿は行方も知れず消えてしまい、形見として私の涙が残るだけだ」というような意味でしょう。
これに対して幽斎は、「をしからぬ 身をまぼろしと なすならば 涙の玉の ゆくゑ尋ねん」と返します。
その意味は、「惜しくもない老いた身を幻とすることができるならば、お涙の行く先を尋ね、若君の魂のありかを訪ねましょうものを」というものでした。
秀吉の亡き我が子に対する悲しみを表現した一首も見事ですが、それに対する幽斎の返歌には、中国・唐代の白楽天の詩『長恨歌』や、謡曲『楊貴妃』のイメージが重ねられていたとも考えられます。
つまり幽斎は、秀吉の悲嘆を、玄宗皇帝が楊貴妃を失った悲しみになぞらえて詠んだのでしょう。もちろん、そうした表現を秀吉が理解してくれることを踏まえての返歌だったと考えられます。
このように秀吉は、細川幽斎という当代随一の文化人を師として和歌を学び、自らも数多くの歌を詠んだ人物でした。
秀吉はまさに、桃山時代を代表する歌詠みの一人でもあったといっても、決して過言ではないでしょう。その姿を知ると、天下人・秀吉のイメージも少し違って見えてくるのではないでしょうか。
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