源頼朝に血祭りにあげられた男…「悪代官」の濡れ衣・山木兼隆|在任わずか50日のあまりに不遇な生涯
時は治承4年(1180年)8月17日、伊豆国蛭島(ひるがしま。静岡県伊豆の国市)に流されていた源頼朝が、20年にわたる雌伏の歳月を越えて平家打倒の兵を挙げました。
その標的となったのは、伊豆国で目代を務めていた山木兼隆(やまき かねたか。平兼隆・大掾兼隆)。平家政権による暴政を象徴する悪代官として、血祭りに上げられたのです。
しかし兼隆が悪代官であるというのは後世の創作で、まさに「負ければ賊軍」と言わんばかりに濡れ衣を着せられたのでした。
そこで今回は、山木兼隆の生涯をたどってみたいと思います。果たしてどんな人物だったのでしょうか。
検非違使として活躍
山木兼隆は生年不詳、桓武平氏大掾(だいじょう)氏の流れをくむ平信兼(のぶかね)の長男として生まれました。
生母は不明、弟たちには平兼衡(かねひら)・平信衡(のぶひら)・平兼時(かねとき)らがいます。
検非違使少尉(けびいしのしょうじょう)に任じられたことから判官(ほうがん/はんがん)と呼ばれ、検非違使別当を務めていた平時忠(清盛義弟)の元で京都洛中の治安維持に当たりました。
治承元年(1177年)の白山事件(※)では天台座主の明雲(みょううん)を警護しています。
(※)比叡山延暦寺の末寺である白山が加賀国司に楯突いたため、その責任を問われた明雲が伊豆国へ流罪となるも、護送の道中で大衆(僧兵)に奪還される事件。
兼隆は僧兵たちに罪人を奪われてしまった訳ですが、朝廷の武威にも屈しない寺社勢力の強大さが感じられます。
伊豆国へ流される
そんな中、兼隆はいきなり父から訴えを起こされ、治承3年(1179年)1月に右衛門尉を解任されてしまいました。
なぜ父が我が子を訴えたのか、その理由や事情について、詳しいことはわかっていません。
ともあれ有罪となった兼隆は、そのまま伊豆国山木郷(静岡県伊豆の国市)へ流されてしまいます。以来「山木」兼隆と呼ばれるようになりました。
しかし同年11月に京都で起こった治承三年の政変(※)後、兼隆は親しくしていた平時忠が伊豆国主であったツテにより、伊豆国目代に任じられます。
(※)ざっくり言うと:平家と朝廷の間を取り持っていた平重盛(清盛嫡男)が亡くなり、朝廷がここぞとばかり重盛遺領を奪い取るなどしたことから清盛が激怒。朝廷を抑圧して独裁軍事政権を確立した事件。
目代(もくだい)とは目の代わりと書くとおり、在京していることが多い国司に代わって現地の統治に当たる代官です。
この人事によって、兼隆は伊豆国内で勢力を拡大していくことになるのでした。
北条政子との縁談
かくして伊豆国の代官として権力を握った兼隆には山木兼光(かねみつ)・山木兼盛(かねもり)という子がいましたが、その生母は不明です。
『曽我物語』などの軍記物語では、伊豆の豪族である北条時政の娘・北条政子との縁談が進んでいたといいます。
しかし政子は時政が大番役として上洛していた隙に、流人の源頼朝と恋仲となってしまいました。
これを知った時政は「罪人と身内になるなどまっぴら御免」とばかり、大急ぎで政子を兼隆へ嫁がせようとしましたが、政子は北条邸を脱出して頼朝の元へ逃げ込みます。
政子と頼朝は伊豆山権現へ駆け落ちして庇護を受けたため、もう連れ戻すことができません。そこで時政は、しぶしぶ政子と頼朝の縁談を認めたのでした。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』でも、政子は後に「闇夜をさまよい、雨をしのいで貴方のもとへ参りました」とこの時の思い出を語っています。
結局、兼隆は政子を娶ることなく、他の女性と子供をもうけたのでした。
目代だったのはわずか2ヶ月?
歌川国芳「本朝英雄鏡 山木判官兼高」より、障子の陰から飛び出した兜に斬りかかり、その隙に討たれてしまう山木兼隆。
ちなみに兼隆が伊豆の目代に任じられた時期についても異説があり、平時忠が伊豆国主となったのは治承4年(1180年)に以仁王の乱が鎮圧された後の同年6月末だと言います。
それまでは以仁王(もちひとおう)を擁立した源頼政(よりまさ)の嫡男である源仲綱(なかつな)が伊豆の国主でした。
だから兼隆が伊豆の目代となり、同年8月17日に討たれるまでは約50日ほどしかありません。
目代となって大威張りするくらいは出来たとしても、その短期間で民百姓が苦しむほどの暴政をしくのは、少し難しいのではないでしょうか。
それほどインパクトが強い暴政をしいたのであれば、何かしら記録が残る、あるいは挙兵の正当性を訴えるために頼朝たちが喧伝すると考えるのが自然です。
そうした痕跡がないということは、兼隆が極端な暴君・悪代官であったとする見方について、再考の余地があるかもしれません。
八巻と称した子孫たち
月岡芳年「月百姿 山木邸の月」より、障子の陰から兜を突き出して兼隆を騙す加藤景廉。
かくして治承4年(1180年)8月17日、三島大社の祭礼で郎党たちの多くが不在であった隙を突かれた兼隆は、加藤景廉(かとう かげかど)に討ち取られてしましました。
一説によると、兼隆は出家して基饒(きじょう)と号しており、その子孫たちは伊豆から脱出したと言われています。
武蔵国秩父郡(埼玉県西部)へ逃れた山木一族は、苗字を読みは同じ八巻(やまき)と改めました。
そして甲斐国(山梨県)の武田氏・常陸国(茨城県)の佐竹氏・越後国(新潟県)の上杉氏・陸奥国(東北地方)の伊達氏などに仕えたそうです。
終わりに今回は源頼朝の挙兵で真っ先に討たれてしまった山木兼隆について、その生涯をたどってきました。果たして彼が伊豆の目代としてどのように振る舞ったのか、今後の究明がまたれますね。
往々にして悪役に描かれがちな人物ですが、意外な魅力や活躍があったのかもしれません。新しい情報や発見があったら、是非またお伝えしたいと思います。
※参考文献:
川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年2月 永井晋『鎌倉源氏三代記:一門重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年6月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan