源頼朝に血祭りにあげられた男…「悪代官」の濡れ衣・山木兼隆|在任わずか50日のあまりに不遇な生涯 (1/5ページ)

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源頼朝に血祭りにあげられた男…「悪代官」の濡れ衣・山木兼隆|在任わずか50日のあまりに不遇な生涯

時は治承4年(1180年)8月17日、伊豆国蛭島(ひるがしま。静岡県伊豆の国市)に流されていた源頼朝が、20年にわたる雌伏の歳月を越えて平家打倒の兵を挙げました。

その標的となったのは、伊豆国で目代を務めていた山木兼隆(やまき かねたか。平兼隆・大掾兼隆)。平家政権による暴政を象徴する悪代官として、血祭りに上げられたのです。

しかし兼隆が悪代官であるというのは後世の創作で、まさに「負ければ賊軍」と言わんばかりに濡れ衣を着せられたのでした。

そこで今回は、山木兼隆の生涯をたどってみたいと思います。果たしてどんな人物だったのでしょうか。

検非違使として活躍

京都洛中の治安維持に努める兼隆たち(イメージ)

山木兼隆は生年不詳、桓武平氏大掾(だいじょう)氏の流れをくむ平信兼(のぶかね)の長男として生まれました。

生母は不明、弟たちには平兼衡(かねひら)・平信衡(のぶひら)・平兼時(かねとき)らがいます。

検非違使少尉(けびいしのしょうじょう)に任じられたことから判官(ほうがん/はんがん)と呼ばれ、検非違使別当を務めていた平時忠(清盛義弟)の元で京都洛中の治安維持に当たりました。

治承元年(1177年)の白山事件(※)では天台座主の明雲(みょううん)を警護しています。

(※)比叡山延暦寺の末寺である白山が加賀国司に楯突いたため、その責任を問われた明雲が伊豆国へ流罪となるも、護送の道中で大衆(僧兵)に奪還される事件。

兼隆は僧兵たちに罪人を奪われてしまった訳ですが、朝廷の武威にも屈しない寺社勢力の強大さが感じられます。

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