【豊臣兄弟!】狩野永徳(片岡鶴太郎)、実は秀長より年下!信長・秀吉を魅了し絵に命を捧げた生涯 (2/4ページ)

Japaaan

有名な永徳とは号であり、諱(実名)は狩野州信(くにのぶ)、通称は狩野源四郎(げんしろう)と言います(※以下、永徳で統一)。

永徳が歴史上に姿を現したのは天文21年(1552年)1月29日。祖父の狩野元信(もとのぶ)に連れられて、足利義輝(第13代将軍)に謁見しました(諸説あり)。

幼少期から絵画の修行を重ね、永禄10~11年(1567~1568年)にかけて近衛前久(このえ さきひさ)邸で障壁画を手がけています。

障壁画とは、日本建築の壁・襖・障子・杉戸・衝立・屏風などに描かれる絵画の総称です。

また元亀2年(1571年)には豊後国(大分県)の大友宗麟(おおとも そうりん。大友義鎮)に招かれ、丹生島城(にうじまじょう。大分県臼杵市)の障壁画を手がけました。

この時、公家の久我晴通(こが はれみち)・僧侶の怡雲宗悦(いうん そうえつ)・彫金師の後藤徳乗(ごとう とくじょう)・薬師の吉田牧庵(よしだ ぼくあん)らも同行しています。

信長・秀吉からの依頼

安土城(イメージ)

かくして狩野派を代表する絵師として名声を高めた永徳を、織田信長が放っておくはずがありません。

安土城(滋賀県近江八幡市)の障壁画を描くように命じられた永徳は、これを受けるよりありませんでした。

もし失敗したらタダでは済まないと覚悟した永徳は、弟の狩野宗秀(むねひで/そうしゅう)に家屋敷や財産の多くを譲ります。

たとえ自分が処刑されても、妻子らを弟が保護してくれることを願ったのでしょう。

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