【豊臣兄弟!】狩野永徳(片岡鶴太郎)、実は秀長より年下!信長・秀吉を魅了し絵に命を捧げた生涯 (3/4ページ)
かくして決死の覚悟で安土城の障壁画に取り組んだ結果、見事な作品に仕上がったそうです。
天正10年(1582年)に信長が本能寺で横死を遂げ、織田政権をまんまと乗っ取った羽柴秀吉もまた、永徳の画風を好みました。
天正11年(1583年)には大坂城の障壁画を描かせ、また天正14年(1586年)には京都聚楽第(じゅらくだい)の障壁画を描かせています。
絢爛豪華な派手好みの秀吉に相応しい作品が、秀吉を満足させたことでしょう。
最期は過労死
狩野永徳「唐獅子図屏風」宮内庁 蔵(画像:Wikipedia)
続いて天正17年(1589年)には後陽成天皇(第107代)の求めに応じて内裏の障壁画を描き、天正18年(1590年)には八条宮家(のち桂宮家)の障壁画も手がけました。
永徳は休む間もなく描き続け、天正18年(1590年)9月に東福寺(京都市東山区)で天井画(龍図)の制作にとりかかりました。
しかし過労がたたり、急病に倒れて9月14日に世を去ってしまいます。享年48歳、現代で言えば過労死だったのでしょう。
永徳の戒名は聴受院殿永徳法眼高信日意大居士(ちょうじゅいんでん えいとくほうげん こうしんにちいだいこじ)、京都妙覚寺に葬られました。