朝ドラ『ブラッサム』借金完済から100万部ヒットへ!ヒロイン葉野珠(石橋静香)のモデル・宇野千代の生涯【後編】 (2/4ページ)
昭和11(1936)年6月、千代はスタイル社を創立。日本で初めてとなるファッション専門誌『スタイル』を創刊しました。
このとき、千代は恋人である北原武夫とともに編集者となります。
昭和13(1938)年、スタイル社において文芸誌『文體』を創刊。しかしこれは成功することはありませんでした。
翌昭和14(1939)年、2人は結婚。編集として夫婦として、スタイル社をともに率いていくこととなりました。
昭和16(1941)年4月、千代は武夫らとともにアジアの満州国や中華民国を旅します。
同年6月には異母弟の光雄が急逝。そして悲しい知らせはさらに続くこととなります。
翌昭和17(1942)年、夫の武夫が報道班員としてジャワ島に出征。千代の『スタイル』も敵性語とされた英語から『女性生活』へと改題を余儀なくされました(会社名は「文體社」と改名)。
昭和18(1943)年、武夫が復員。勢いづいたのか、同年に千代は『人形師天狗屋久吉』などの書籍を次々と刊行しています。
しかし悪化する戦況は、暮らしに暗い影を落としていきました。
昭和19(1944)年、千代は『女性生活』の廃刊を決断。会社も解散して熱海への疎開を決めました。
疎開先では谷崎潤一郎夫妻と交流を深めるなど、千代はどのような環境でも逞しく生きようとしていました。
昭和20(1945)年、武夫の故郷・栃木県下都賀郡壬生町に再び疎開。同地で終戦を迎えました。
翌昭和21(1946)年、千代は武夫とともに「スタイル社」を再建。自身は副社長として社長となった武夫を支えます。
さらにファッション専門誌の『スタイル』を復刊。着物のデザインにも乗り出し、雑誌で販売に乗り出すという手法で利益を上げました。
昭和25(1950)年には東京の木挽町に自宅を新築。さらにライフスタイル提案ショップ「スタイルの店」をオープンさせるなど、本格的な業務の多角化へ舵を切っていました。