【豊臣兄弟!】秀長と高虎の残酷すぎる“裏の顔”…「北山一揆」残党狩りで民衆を恐怖に陥れた凄惨な記録 (2/3ページ)

Japaaan

しかし秀長はこれを受け入れず、必ず攻め滅ぼすと通告したのでしょう。

しかしこの時期、秀吉による九州征伐が進められており、秀長もそちらへ尽力しなければなりません。

ひとまず一揆勢の殲滅はお預けとなりますが、いつ矛先が再び向けられるか、戦々恐々としていたことでしょう。

執拗な残党狩り

一揆を完全鎮圧した藤堂高虎(画像:Wikipedia)

やがて天正15年(1587年)5月に九州征伐が完了し、戦後処理など諸々の準備を整えた秀長は、再び一揆勢に矛先を向けます。

天正16年(1588年)、秀長は藤堂高虎(佳久創)に命じて赤木城(三重県熊野市)を築かせました。これは一揆殲滅の前線基地・殲滅後の支配拠点とするためで、いかに秀長が本腰を入れていたかがわかります。

築城がある程度の形となったところで、秀長は9月に再度の出兵に乗り出しました。

兵を率いたのは吉川平助(松岡広大)・吉川三蔵(きっかわ さんぞう)で、この年は雪が少なかったのか、徹底的に攻め込んだようです。

そんな中、同年12月に吉川平助が材木取引の利益を横領していることが発覚。平助は処刑され、秀長は監督不行き届きで秀吉の怒りを買ってしまいました。

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