妻子を捨て『新撰組』へ…土方歳三の最期を見届けるも武士身分を剥奪された隊士・安富才助の生涯
幕末の京都を闊歩した新撰組は男所帯であり、命を惜しまぬよう女子供は遠ざけられました。
妻帯者は屯所から十里(約40キロ)以上離れた場所に住まわせることを義務づけたそうです。
また給与が乏しく経済状態がよくないため、そもそも妻子を養う余裕もなかったことでしょう。
それでも尽忠報国の志を胸に、新撰組へ飛び込む者は少なからずいたそうです。
今回はそんな一人・安富才助(やすとみ さいすけ)を紹介。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
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安富才助は天保10年(1839年)、安富正之進(しょうのしん)の次男として誕生しました。才助(才輔・才介とも)とは通称で、諱(実名)を安富正儀(まさよし/まさのり)と言います。
安富家は備中国足守藩(岡山県岡山市)に仕えて12俵2人扶持の俸禄を食み、父は川場方・年貢収納役・勘定方を歴任する能吏だったそうです。
やがて父が弘化3年(1846年)に江戸詰を命じられ、一家揃って江戸に移り住みました。
この時に兄の源之助(げんのすけ)は父の同僚であった宮崎家へ養子入りします。そのため、嘉永5年(1852年)に父が亡くなると、才助が安富の家督を継ぎました。
父が務めた勘定方を引き継いで奉公するかたわら、激務の間に大坪流馬術の修行に勤しみ、ついに免許皆伝となったそうです。
まさに文武両道の才助は、やがて結婚して一人娘を授かりました。このまま幸せに一生を終えてもよかったのでしょうが、風雲急を告げる幕末の動乱を前に、才助は居ても立ってもいられなかったようです。
妻子とキャリアを捨てて新撰組へ安富才助が新撰組に入隊したのは元治元年(1864年)10月ごろ。愛しい妻子を振り切っての決断だったことでしょう。
名前に恥じぬ多才ぶりから土方歳三(副長)の信頼は厚く、隊内では伍長・諸士調兼監察・勘定方そして馬術師範を歴任・兼務します。
組織運営の実務を担える人材は貴重であり、また妻子を振り切るほど高い志を持っていたことが、土方らの信頼を得たのでしょう。
勘定方の職務上、あまり最前線で闘うことはなかったようですが、縁の下の力持ちとして新撰組に貢献しました。
しかし慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、新政府軍に敗れた新撰組は京都の地から逃走します。
その後は土方らと別行動をとりますが、会津の地で再会を果たしました(この間についてはよくわかっていません)。
局長の近藤勇は既に処刑され、生き残った中から斎藤一(三番隊長)が隊長として指揮をとります。
才助は副長として斎藤を補佐し、その後も各地を転戦しながら北上していきました。
新政府軍に武士の身分を剥奪される
そして蝦夷地に渡った才助は新撰組を離脱し、蝦夷共和国政権の陸軍奉行並に就任した土方歳三の直臣となります。
明治2年(1869年)5月11日に土方歳三が戦死すると、その最期を見届け、隊士の立川主税(たちかわ ちから)に土方家に宛てた書状を託しました。
早き瀬に 力足らぬか 下り鮎
※書状に詠まれた土方への追悼句。
【句意】瀬の流れが速すぎて、下り鮎は力尽きてしまったのだろうか。
それから間もなく新政府軍に投降し、およそ1年にわたって身柄を抑留されたそうです。
翌明治3年(1870年)になって赦免され、兄の宮崎源之助に身柄を引き取られました。
しかし才助は武士の身分を剥奪され、生涯にわたり帯刀を許されなかったと言います。武士として生まれ育った才助にとって、耐えがたい屈辱だったことでしょう。
そして明治6年(1873年)5月28日に35歳の若さで世を去ったということです。
終わりに今回はキャリアと妻子を捨てて新撰組に身を投じ、土方歳三の最期を見届けた安富才助の生涯をたどってきました。
最後に武士の身分を奪われる屈辱を味わった才助は、土方と一緒に戦死できたらよかったと思ったのでしょうか。
新撰組には他にも個性的な隊士がたくさんいるので、また改めて紹介したいと思います。
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相川司『新選組隊士録』新紀元社、2011年12月 壬生狼友の会 監修『新選組468隊士大名鑑 完全版』小池書院、2007年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


