『豊臣兄弟!』なぜ秀長(仲野太賀)は奈良の商人を大和郡山へ移した? 奈良筆・奈良墨から見る大和の経済力
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第38回では、羽柴秀長(仲野太賀)による大和郡山の経済改革が描かれました。
今回は、ドラマに登場した筆屋をきっかけに、寺院文化と深く結びつきながら発展した「奈良筆」と「奈良墨」の歴史をひも解いていきましょう。
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奈良筆の良さを力説する秀長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
秀長が目指した「大和の経済改革」と奈良の商工業「紀州和歌山に拙弟秀長を置き候。居城あい拵えて紀泉両国残らず申し付け候」
これは、『三好文書』に記録されている豊臣秀吉(池松壮亮)の書状です。
紀伊平定と四国平定を終えた秀吉は、配下の諸将を畿内に配すとともに、大和・紀伊という二つの要地を弟・秀長に任せます。秀長はこれにより、百万石の大領主となりました。
大和・紀伊は、秀吉が統治基盤と定めた京都と大坂に隣接する場所。だから、ここに一番信用できる秀長を置くのは道理にかなった差配ですが、この地は実に厄介な場所だったんですね。
紀伊にはもともと有力な守護がいなかったこともあり、土豪や寺社が「惣国(そうこく)」と呼ばれる自治的な組織を形成し、国内に割拠していました。雑賀衆・根来衆・熊野僧兵・熊野水軍などが、こうした勢力の代表として挙げられます。
そして大和は、興福寺・春日社が実質的な守護職のように君臨し、「衆徒・国民」と呼ばれる僧兵を率いて圧倒的な軍事・経済力を誇っていました。
秀吉はこれらの勢力を圧倒的な軍事力で臣従させましたが、統治方法を誤れば、いつまた反逆の狼煙が上がるか分からない。そんな油断のできない状況であったとも考えられるのです。
だからこそ、秀吉としては、紀伊・大和を任せることができるのは秀長しかいなかったのでしょう。
こうして秀長は、大和郡山を本拠として大和・紀伊の統治に乗り出します。ただし、秀長が入部する前から、大和郡山では筒井順慶(永沼伊久也)によって城下の整備が進められていました。
それは同地が、北は京都、西は大坂・堺、東は伊勢(宇治・山田)といった経済都市とつながる、水陸交通の要衝だったからです。
秀長は順慶が築いた郡山城を大改修するとともに、城下町の拡張などを含めた大胆な経済政策を進めます。
その大きな政策の一つが、隣接する奈良での商いを禁止、あるいは制限して、同地の商人を郡山城下に集めるというものでした。
奈良というと、東大寺や興福寺などの大きな寺社が多く、文化的な土地というイメージがありますよね。でも平安時代に入ると商業都市としての形態を整え、戦国時代には京都に次ぐ大商業都市へと成長していたのです。それが、奈良のもう一つの姿でした。
とくに奈良墨(油煙墨)や奈良筆などの文具類、清酒(日本酒)の醸造業は、寺院を発祥とする手工業として知られています。このほかにも、麻織や鋳物、瓦など、さまざまな産業が盛んな都市として、奈良は経済大国・大和の中心を担っていたのです。
しかし、戦国時代の奈良で富や利権を握っていたのは、興福寺や春日社をはじめとする強大な寺社勢力と、そのもとで「座」を構成し、営業の独占権という特権を享受していた奈良の豪商たちでした。
秀長にとって大和郡山は、大和・紀伊・和泉にまたがる大領国を統治するための中心地でした。その広範囲な領国を経営するには、なによりも潤沢な資金が不可欠。人・物・金が集まる城下町を作り上げる必要があったのです。
その目的を達成するため、秀長は大和郡山を一大経済拠点にしようとしました。
もちろん、既得権益のうえで富を蓄えていた寺社や豪商の多くからは、この政策に抵抗する勢力も現れます。
秀長はそうした勢力に対して、奈良での商売禁止や座の特権の剥奪といった強い統制措置を取りました。
奈良の豪商たちと対面する秀長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
一方、秀長の政策に賛同して郡山に移ってきた商工業者には、地子の免除や営業の独占権の付与といった手厚い保護政策を行いました。
『豊臣兄弟!』第38回「和を以てて、大和をなす」で、秀長に協力した筆屋の主人・才蔵(間宮祥太朗)など、座の特権を得られなかった中小の商人にとっては、新興商業地である郡山へ移転することが、商売上の好機だったのです。
大和郡山の城下で才蔵と出会う秀長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
ただし、秀長が1585年(天正13年)以降に整備した「箱本十三町」には、「筆屋町」のような奈良筆の専門町はありませんでした。
筆屋の才蔵やそのエピソードは、秀長が奈良の商工業や特権を大和郡山へ移したという、ドラマの背景として捉えるべきでしょうね。
とはいえ、奈良筆は日本の筆作りの歴史を語るうえで重要な存在であり、奈良を代表する工芸品の一つでもあります。だからこそ、ドラマの軸を担う製品として取り上げられたのだと思います。
ここからは、江戸時代には全国有数の産地として名を馳せることになる奈良筆と、現在も国内有数の産地として知られる奈良墨について、その歴史をひも解いていきましょう。
日本の筆文化を支えた奈良筆、そのルーツは空海にあった?では、まずは奈良筆からみていきましょう。
日本の筆文化は、飛鳥時代(6世紀末〜7世紀頃)、渡来人により大陸から伝わり、このときに筆・墨・硯(すずり)がセットで日本へ入ってきたとされます。
そして、奈良筆については、留学僧として唐に渡った空海が、現地で筆の製法を学び、日本へ持ち帰ったという伝承が残されているのです。
空海は帰国後、大和国今井の住人・酒井名清川に筆を作らせ、嵯峨天皇や皇太子に献上したと伝えられています。やがて筆作り中心は、墨の生産地でもあった奈良へ移っていったようです。
その理由は、明快ですね。奈良には東大寺や興福寺をはじめとする大寺院が数多くありました。経典の書写や寺院の文書など、筆を使う機会はいくらでもあったわけです。
つまり奈良には、筆を必要とするたくさんの顧客がいた。こうした寺院を中心とした需要が、奈良の筆作りの技術の発達と職人たちによる専門的な生産へと発展していきました。
ちなみに、現在のように毛を混ぜ合わせて穂を作る「無芯筆」が登場したのは江戸時代の元禄期という説が一般的です。
それ以前は、芯になる毛を麻紙のような紙でしっかり巻き固め、その上に薄く衣毛をかぶせて穂を作る様式でした。そのため、穂の根元が固く、現在の筆とは書き味がかなり異なったのです。
狩野永徳(片岡鶴太郎)に依頼された筆を試作するシーンで、才蔵は幾種類もの動物の毛を合わせて巻くという手法をとっていました。
これは「無芯筆」ですね。時代的には史実と合わないのですが、永徳の言う「もっと根元にしっかりと墨や絵の具を吸い込む」ためには無芯筆でないと無理でしょう。
ヤクの毛の筆を作る才蔵と見守る秀長と末(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
『豊臣兄弟!』では、意図的にかどうかは別として、才蔵を無芯筆の発明者にしたようです。
ともあれ、この筋書きがフィクションであっても、奈良で筆作りが発展してきた背景には、技術の革新を怠らなかった職人たちの長い歴史があったと考えて間違いないでしょう。
奈良墨は全国シェア9割!寺院文化から生まれたもう一つの名産そして、筆とくれば、忘れてはいけないのが墨でしょう。
実は奈良墨は、現在も国産墨の全国シェアの約90%をしめる、奈良を代表する伝統産業なのです。
奈良墨の起源については諸説あります。一説には空海が、筆とともに墨の製法を唐から持ち帰り、興福寺二諦坊で作ったのがはじまりと伝えられています。
またしても空海かと思われますが、三筆といえば空海ということもあり、納得という気がしないでもありませんね。
また奈良県の資料では、墨作りは飛鳥時代に宮都が置かれた明日香の地ではじまったともされています。これには東漢氏(やまとのあやうじ)などの渡来人やその技術集団が深く関わっていたことは間違いなさそうです。
ともあれ、都が京都へ移った後も、奈良には数多くの寺社が残りました。そのため、写経や学問に使う墨の需要が途絶えることなく、墨作りが奈良で発展していったのでしょう。
さて奈良墨には、松脂を燃やして作る「松煙墨」に対して、菜種油などを燃やして得た煤(すす)を原料とする「油煙墨」があります。
この煤に、動物の皮や骨などを煮出して作られる液体である膠(にかわ)を混ぜ合わせて固めたものが「南都油煙墨(奈良墨)」です。
戦国時代になると、奈良墨の老舗「古梅園」の始祖とされる人松井道珍が現れます。道珍は、南都墨の名声を高め、墨作りを寺院の中だけにとどまらない民間の産業として発展させる基礎を築くのです。
奈良筆と奈良墨。前者は1977年(昭和52年)、後者は2018年(平成30年)に国の伝統的工芸品に指定されました。
日本の“書く文化”を支えてきた二つの伝統が古都奈良で育まれ、それが経済基盤として秀長の国を支えた、これはなかなか興味深い話ではないでしょうか。
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