【豊臣兄弟!】わずか7年の生涯…秀吉に溺愛された豪姫に対し冷遇されたもう1人の養女・菊姫の不憫さ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、子供のいなかった秀吉夫婦に、前田利家から豪姫(ごうひめ)が養女となる場面が描かれていました。
しかし秀吉の養女となった利家の娘は、豪姫だけではなかったのです。
今回は秀吉が利家から迎えたもう一人の養女・菊姫(きくひめ。羽柴菊)を紹介。果たして彼女はどんな生涯をたどったのでしょうか。
豪姫に関しては、こちらの記事で紹介しています。
『豊臣兄弟!』秀吉に溺愛されながら最後は家族と生き別れ…養女・豪姫の悲劇の生涯 豪姫とは扱いに大きな格差
菊姫は天正6年(1578年)に前田利家の六女として誕生しました。生母は側室(または妾)の笠間氏で、生まれてすぐに秀吉の養女に出されます。
羽柴家へ迎えられた菊姫ですが、秀吉夫婦が育てることはなく、家臣の西川何某(または金物問屋の西川重元)に養育されました。
天正3年(1575年)に秀吉の養女となった豪姫に比べて、扱いに随分な格差が感じられます。
利家の正室であるまつ(芳春院)が生んだ豪姫に対して、生母の身分が低い菊姫については、そこまで重んじてはいなかったのでしょう。
何なら前田家で生まれる前から悩みのタネとなっていた菊姫を、秀吉が養女という体で引き取ったのかもしれません。
7歳で世を去るともあれ羽柴家の養女となった菊姫ですが、7歳となった天正12年(1584年)8月21日に世を去ってしまいました。
当時は乳幼児の死亡率が非常に高かったことから、そこまで珍しいことではありません。
俗に「つばなれ」と言うように、一つ・二つと「つ」で数えられる9歳(ここのつ)までは、いつ死んでも仕方ないと考えられていたそうです。
9歳までは神様の子だから、いつ召し返されても仕方ない。10歳(とお)からはようやく人間の子となり、大切に育てていきました。
現代も残る七五三の風習は、この(7歳まではいつ死んでも仕方ないという)考え方の名残です。
「つばなれ」と七五三の意外な関係や、昔の死生観については下記記事で紹介しています。
行きはよいよい帰りは…どうして”怖い”のか?童謡「とおりゃんせ」に込められたメッセージかくして世を去った菊姫は近江国の西教寺(滋賀県大津市)に葬られ、金渓空玉(きんけいくうぎょく)の法号を贈られます。
西教寺には菊姫の肖像画が伝わっており、髪を美豆良(みずら)に結い上げた少女が菊の花を持ち、傍らには人形や独楽などがあしらわれていました。
生前の姿をそのまま描き写したのか、あるいは冷遇された菊姫を不憫に思い「せめてあの世では楽しく過ごしてほしい」と願ったのかもしれません。
菊姫・人物データ
実名:前田菊→羽柴菊
生没:天正6年(1578年)生~天正12年(1584年)8月21日没(享年7歳)
両親:前田利家/笠間氏(側室または妾)
養親:羽柴秀吉/北政所(正室)
扶養:西川何某(または西川重元)
法号:金渓空玉
墓所:西教寺(滋賀県大津市)
終わりに
今回は前田利家から羽柴秀吉に送られたもう一人の養女である菊姫を紹介しました。同じ養女でありながら、溺愛された豪姫とは大きく扱いが違ったようです。
生母の身分によって扱いが大きく変わってしまう不条理を、菊姫自身はどう感じていたのでしょうか。
もしかしたら、自分が秀吉の養女であることすら知らされていなかったのかもしれません。
ちなみに菊姫の肖像画は西方寺(石川県金沢市)にもあり、これは利家が娘を偲ぶよすがとしたのでしょうか。
生まれてすぐに両親から引き離され、養親からもあまり大切にされなかったであろう菊姫が、実に不憫でなりませんね。
今後の「豊臣兄弟!」の展開に関して、下記記事で紹介していますので、ぜひご覧ください。
【豊臣兄弟!】なぜ茶々は「親の仇」秀吉の側室になった?史実では寧々との対立も創作、実は共闘していた※参考文献:
桑田忠親『日本歴史叢書 30 桃山時代の女性』吉川弘文館、1996年8月 近藤市太郎『日本のおんな』鹿島研究所出版会、1966年11月 『石川県史 第2編』石川県図書館協会、1974年2月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


