【豊臣兄弟!】寧々一筋のはずが実は側室200人超!石川数正はなぜ出奔?ほか…第39回の史実を一挙紹介

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【豊臣兄弟!】寧々一筋のはずが実は側室200人超!石川数正はなぜ出奔?ほか…第39回の史実を一挙紹介

今週の豊臣兄弟!は①茶々がニート宣言から秀吉の側室へ②家が何だと寧々の本音③石川数正ついに出奔、の大きく3本でお送りされました(筆者の感想です)。

どうしても秀吉(池松壮亮)が権力ずくで側室にしたように思われがちな茶々(井上和)の輿入れを、今回は彼女自身の意思と決断の結果にアレンジしています。

万民が幸せに暮らせる豊臣の世を自分が築いてみせる……亡きお市(宮崎あおい)と信長(小栗旬)の血と誇りを受け継ぐため、茶々の物語は新たな幕を開けたのでした。

それでは第39回放送「茶々の本心」今週も気になるトピックを振り返ってまいりましょう!

秀吉に側室はいなかった?

茶々と寧々の弓勝負。ちなみに亡き父・浅野長勝は織田家弓衆であったが、その娘が弓術の達者であった保証はない。この寧々はきっと平素から鍛錬していたのだろう。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

女遊びはするけれど、ずっと寧々(浜辺美波)一筋みたいな描かれてきた秀吉ですが、戦国乱世の習いとして側室(別妻や愛妾)がいなかったわけではありません。

当時における結婚の意義は政略(家同士の連携)と子孫繁栄(男児は後継者および戦力、女児は政略結婚)が主であり、恋愛感情は二の次にされるのが当然でした。

大名や武将たちはもちろんのこと、農民たちにしても血族や姻族の持つ互助機能を磐石にしなければ一族の存続がおぼつきません。

それで秀吉も長浜城主時代に側室を迎えており、彼女は住んでいた場所から南殿(みなみどの)と呼ばれ、一男一女をもうけています。

ただし彼女の子供はどちらも早逝してしまい、菩提を弔うために出家。江戸時代の寛永11年(1634年)に世を去ったのでした。物語には影響がないため、彼女たちの存在は割愛されてしまった次第です。

ちなみに子供はできなかったけれど、秀吉の側室は他にもたくさんいました。

姫路殿(ひめじどの。織田信長姪)……天正5年(1577年)ごろ側室に 山名茜(やまな あかね。山名豊国女)…天正8年(1580年)ごろ側室に 京極竜子(きょうごく たつこ。京極高吉女)…天正10年(1582年)ごろ側室に 蒲生とら(がもう とら。蒲生賢秀女)……天正11年(1583年)ごろ側室に 前田摩阿(まえだ まあ。前田利家三女)…天正13年(1585年)ごろ側室に 等

※この後も続々と側室は増え続け、200人とも300人とも言われる妻妾を抱えることになります。

なんと側室300人!豊臣秀吉の女性選びが、他の戦国大名とちょっと違った理由とは?

彼女たちについて、この世界における寧々はどのように思っていたのでしょうか。

羽柴秀勝は三人いた

この秀勝は、二人目の秀勝。三人目の秀勝にも期待したい。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

亡き織田信長(小栗旬)からもらった養子の羽柴秀勝(柊木陽太)は天正13年(1586年)12月10日に19歳の若さで世を去ってしまいました。秀吉はさぞ落胆したことでしょう。

ちなみに羽柴秀勝と名づけられた人物は同時代に3名おり、いずれも秀吉の子供(実子または養子)でした。

一人目の羽柴秀勝(石松丸)

秀吉の実子で生母は先ほど紹介した南殿。生年不詳、天正4年(1576年)10月14日に幼くして早逝しています。

二人目の羽柴秀勝(於次丸)

信長の四男もしくは五男で、秀吉の後継者候補として大切に育てられてきました。信長死後は秀吉の野望によって都合よく使われ、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いでも活躍しています。

毛利輝元(濱省吾)の養女と結婚しますが、間もなく世を去ってしまいました。

三人目の羽柴秀勝(小吉)

今回劇中で羽柴秀次(山田涼介)の弟として言及された小吉で、姉とも(宮澤エマ)と三好吉房(上川周作)の次男です。彼もまた長兄秀次と共に秀吉の養子となりました。

九州征伐や小田原征伐で活躍して甲斐国(山梨県)を与えられますが、母ともが「遠すぎてかわいそうだからもっと近くにして」とゴネたために美濃国(岐阜県)に領地替えとなっています。

文禄の役(第一次朝鮮征伐)にも出陣したものの、天正20年(1592年)9月9日に現地で病死してしまいました。

こうして見ると、確かに秀吉はつくづく肉親に縁が薄いのかもしれませんね。

初と江はその後どうなった?

妹たちは既に嫁ぎ、残るは茶々のみ。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

今回は結婚したことが言及された初(田牧そら)と江(西川愛莉)。たぶんこのままフェイドアウトすると思われるため、彼女たちがその後どうなったのかを軽くおさえておきましょう。

『豊臣兄弟!』後半の鍵を握る「浅井三姉妹」茶々・初・江——秀吉に翻弄された波乱の生涯

初(田牧そら)はその後どうなった?

天正15年(1587年)に従兄の京極高次(きょうごく たかつぐ)と結婚。正室として迎えられました。京極家は浅井家の主君筋に当たるため、申し分のない縁談だったと言えるでしょう。

結婚後は夫を支えますが子供はなく、慶長14年(1609年)に夫が先立つと出家して常高院(じょうこういん)と号しました。

その後は豊臣家と徳川家の仲立ちとして戦争回避に奔走し、慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発した後も和睦のために尽力します。

翌慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡後は江戸で暮らし、江戸時代の寛永10年(1633年)に64歳で世を去りました。

江(西川愛莉)はその後どうなった?

織田信雄(山脇辰哉)の計らいによって天正12年(1584年)に佐治一成(さじ かずなり)と結婚します。しかし夫が小牧・長久手の戦いで徳川家康に便宜を図ったため、秀吉の怒りを買って離縁させられています。

やがて天正14年(1586年)ごろに先ほど紹介した羽柴秀勝(小吉)と再婚。一人娘の豊臣完子(さだこ)を生みますが、夫に先立たれてしまいました。

そして文禄4年(1595年)に徳川秀忠(長丸。家康嫡男)と再々婚します。秀忠との関係は円満で、二男五女を授かりました。

長女・千姫→豊臣秀頼(秀吉と茶々の子)と結婚 次女・珠姫→前田利常(前田利家の四男)と結婚 三女・勝姫→松平忠直(徳川家康の孫)と結婚 四女・初姫→京極忠高(京極忠次の子)と結婚 長男・徳川家光→江戸幕府第3代将軍 次男・徳川忠長→兄の家光と対立し、敗れて改易される 五女・徳川和子→後水尾天皇(第108代)に入内し明正天皇(第109代)の母に

江姫は豊臣一族と徳川一族の血筋を後世に受け継ぐ上で、大きな役割を果たしたと言えるでしょう。

「夫婦はいいぞ」から来週のフラグ

茶々に夫婦生活の魅力を語る会。秀吉の話も聞いてみたかった。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

一生お荷物として嫌がらせのために生きます……堂々たるニート宣言を果たして秀吉を困らせる茶々に対して、何とか結婚させようとあさひ(倉沢杏菜)と副田吉成(前原瑞樹)、そして小一郎(仲野太賀)が引っ張り出されてきました。

「夫婦はいいぞ」とばかりあさひと吉成の夫婦漫才を演じた後、小一郎が「はじめは敵と思われていたが、やがて受け入れてくれるようになった」と、慶(吉岡里帆)との関係を語ります。

かつてどこかの大河ドラマで、誰だったかが「時が二人を夫婦にする」と語っていましたが、まったくその通りではないでしょうか。

前回に豊臣姓に対する思いを聞いて、秀吉への敵愾心が少しずつ揺らぎつつあった茶々にとって、これらの話は結婚への追い風をうながす効果があったのかもしれません。

しかし散々「夫婦はいいぞ」と仲良しこよしを見せつけたあさひと吉成ですが、来週にはそれがあっさりと引き裂かれることになるのでした。

あさひと吉成の今後について、こちらの記事で紹介しています。

『豊臣兄弟!』妻・あさひは売らない!秀吉の非情な条件を退けた甚助の悲劇的な末路

茶々の輿入れによって「天下人の秀吉とその正室である寧々でさえ、自分たちの思い通りにはならない」ことが示された以上、豊臣一門であるあさひと吉成が例外となるはずはありません。

それでは来週の大盛り上がりを、楽しみに待つことにしましょう。

石川数正はなぜ出奔した?

徳川家を出奔し、豊臣家臣となった石川数正。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

秀吉討つべし!脳筋(脳みそ筋肉)な主戦派四天王の盛り上がりに愛想が尽きたのか、石川数正(迫田孝也)が豊臣方へ出奔してしまいました。

石川数正の出奔に関してはこちらの記事も合わせてご覧ください。

『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由

ただ気になるのは、徳川家康(松下洸平)の「あいつら、今すぐ死んでくれんかのぅ」というセリフを受けて、秀吉と小一郎の暗殺でも企んでいるのではないかと勘繰ってしまいます。

さて、史実でも石川数正は家康の下を出奔して秀吉に寝返っていますが、その理由については諸説ありました。

なぜ石川数正は出奔した? 家康と不和になった 秀吉との連絡役を通じて秀吉に魅了された 秀吉から調略(より好待遇を提示)された 徳川家臣団の武断派から秀吉との内通を疑われ、危機感を覚えた このままでは徳川家が滅ぼされると危機感を覚えた 等々。

いずれにしても家康との間に何かあったことはうかがわれ、天正13年(1585年)ごろには家康から康の偏諱を賜わって石川康輝(やすてる)と改名しています。

家康としては、懐刀である数正を何とかつなぎとめておきたかったのでしょう。しかし天正13年(1585年)11月13日に数正は出奔してしまいました。

秀吉は数正を大歓迎し、河内国に8万石の所領を与えた上で自身の偏諱「吉」を与えて石川吉輝(よしてる)と改名させています。

康の字を返上したことで家康との縁を切り、新たに吉の字を冠して秀吉の家臣となったことを示すものでした。

果たして豊臣家臣となった石川数正は、どんな活躍を魅せるのでしょうか。楽しみに見守りたいですね(あ、死なないので安心してください)。

第40回放送「あさひの輿入れ」

第40回放送「あさひの輿入れ」。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

数正(迫田孝也)が豊臣方へ出奔し、徳川家中は騒然。豊臣との戦は不可能と思われたが、家康(松下洸平)が諦める様子はない。秀長(仲野太賀)ももはや手立てがなく、秀吉(池松壮亮)が挙兵を決めた矢先、大地震が発生する。大坂・浜松ともに大きな被害を受け、両者は和睦の道を探ることに。だが家康は和睦にあたり、秀吉の身内を妻として差し出すよう要求してくる。豊臣家から輿入れできるのはあさひ(倉沢杏菜)だけで・・・

※NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

結婚しているところを引き離してよいなら、別にともでもいいのでは?と思ってしまいますが、そこは「史実がそうだった」のだからどうしようもありません。

さんざん「夫婦はいいぞ」と茶々をそそのかした翌週にこれでは、彼女もうんざりしてしまうかもしれませんね。

来週は涙の夫婦劇が演じられる見通しですので、大量のハンカチかバスタオルのご用意をおすすめします。

天下一統までまだまだ続く長い道のり、これからも熱視線で見守っていきましょう!「豊臣兄弟!」について、こちらの記事でも紹介していますので、ぜひ一緒にご覧ください。

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