秀吉に選ばれし「黄母衣衆」の猛者!小田原征伐で武功を挙げ、大坂城の猛火に阻まれ自害した野々村雅春の生涯 (2/4ページ)
兄の野々村正成(まさなり。三十郎)と同じく美濃国の出身と考えられます。
元服してはじめ野々村吉保(よしやす。吉安とも)と名乗り、伊予守(いよのかみ)の官途を許されました。
信長の黒母衣衆を務めていた兄に恥じない武勇と忠義を兼ね備え、秀吉の黄母衣衆に抜擢されます。
雅春の記録が特筆されるのは天正18年(1590年)の小田原征伐で、この時に武蔵(東京都及び埼玉県)・下総(千葉県北部)・上総(千葉県中部)を転戦して武功を重ねました。
仮にこれが初陣(10代半ば~後半が一般的)とした場合、逆算して元亀元年~天正3年(1570~1575年)ごろの生まれと推測できるでしょう。ただし推測の域を出るものではありません。
また秀吉を護衛する黄母衣衆の性格上、あえて記録はなくても小田原征伐よりも前から出陣していた可能性も考えられます。
大坂夏の陣で自害
慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、雅春は引き続き遺児の豊臣秀頼(秀吉と淀君の子)に仕え、知行3千石を賜りました。
雅春は七手組(しちてぐみ)と呼ばれる親衛隊に再編され、秀頼の身辺を警護します。
【大坂七手組】
青木一重(あおき かずしげ。民部少輔) 伊東長実(いとう ながざね。