秀吉に選ばれし「黄母衣衆」の猛者!小田原征伐で武功を挙げ、大坂城の猛火に阻まれ自害した野々村雅春の生涯 (3/4ページ)

Japaaan

丹後守) 郡宗保(こおり むねやす。主馬正) 中嶋氏種(なかしま うじたね。式部少輔) 野々村雅春(伊予守) 堀田盛重 (ほった もりしげ。図書助) 真野助宗(まの すけむね。蔵人)

※『太閤記』より、五十音順。
※真野助宗は後に子の真野頼包(よりかね。豊後守)に交代。

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、雅春ら七手組は大坂城に詰めて秀頼の警護に当たりました。

やがて慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発し、徳川家康らの大軍が大坂城に攻め寄せると、雅春は大坂城の森村口を守備しました。

翌慶長20年(1615年)に家康らが再来襲した大坂夏の陣では、遊軍として1,200の兵を率いて天王寺・岡山の戦いに臨みます。

しかし武運拙く戦況は好転せず、雅春は主君のそばで最期を遂げようと覚悟しました。

そこで共闘していた七手組の堀田盛重と共に大坂城の本丸を目指しますが、既に火が放たれており、猛火のために近づけません。

やむなく二人は二ノ丸と本丸の中間で、自害して果てたということです。

他の七手組については、既に捕らわれていた青木一重と敵方に内通していた伊東長実、そして既に病没していた真野助宗を除き、焼け落ちる大坂城と運命を共にしました。

終わりに

今回は秀吉・秀頼の2代に仕えた野々村雅春の生涯をたどってきましたが、いかがだったでしょうか。

大勢いた側近の一人なのでたぶん配役はないと思われるものの、画面のどこかにいるかもしれませんね。

秀吉の家臣団には、まだまだ個性的な武将がたくさんいるので、今後も紹介していきたいです。

知られざる武将に関しては、下記記事もオススメです。合わせてご覧ください。

「秀吉に選ばれし「黄母衣衆」の猛者!小田原征伐で武功を挙げ、大坂城の猛火に阻まれ自害した野々村雅春の生涯」のページです。デイリーニュースオンラインは、青木一重、野々村雅春、野々村正成、郡宗保、真野頼包、カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る