『豊臣兄弟!』で亡くなった羽柴秀勝は3人いた!江姫の夫「3人目の秀勝」の知られざる正体

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『豊臣兄弟!』で亡くなった羽柴秀勝は3人いた!江姫の夫「3人目の秀勝」の知られざる正体

大河ドラマ「豊臣兄弟!」皆さんも楽しんでいますか?

豊臣秀吉(池松壮亮)には羽柴秀勝(ひでかつ)という子供がいましたが、実は同姓同名の人物が3人存在していました。

1人目(石松丸秀勝):側室の南殿との間に生まれた実子。ただし幼くして亡くなる。 2人目(於次丸秀勝):織田信長(小栗旬)からもらった養子。こちらも若くして亡くなる。

羽柴秀勝について、こちらの記事もぜひ合わせてご覧ください。

【豊臣兄弟!】茶々、側室入りの引き金に…信長の実子で秀吉の養子・羽柴秀勝の短い生涯

つくづく子供に縁の薄い秀吉ですが、果たしても3人目の羽柴秀勝は、どんな人物だったのでしょうか。

今回は3人目の羽柴秀勝について紹介したいと思います。大河ドラマを楽しむ予習になれば嬉しいです。

実は秀吉の養子じゃなかった?

年英「英雄三十六歌撰 羽柴秀吉」

羽柴秀勝は永禄12年(1569年)、秀吉の姉とも(宮澤エマ)と長尾吉房(上川周作)の次男として誕生しました。

幼名は小吉(こきち)、他の羽柴秀勝と区別するために小吉秀勝とも呼ばれます。

秀吉から見て甥に当たり、兄の羽柴秀次(山田涼介)と共に秀吉の養子となりました。ちなみに弟の羽柴秀保(ひでやす)は羽柴秀長(仲野太賀)の養子となっています。

奈良興福寺の僧侶たちが記した『多聞院日記』によると小吉秀勝は隻眼だったとされていますが、これは秀次の一腹(同じ一つの腹から生まれた実兄弟)とある別史料を「一眼」と誤読したためだそうです。

秀吉に養子入りした厳密な時期はわかりませんが、2代目の於次秀勝が天正13年(1585年)12月に亡くなっているため、その直後の天正14年(1486年)以降と考えるのが自然でしょう。

ただし天正13年(1585年)9月に小吉秀勝と署名された書状が現存していることから、少なくとも数ヶ月間は羽柴秀勝(於次と小吉)が2人存在していたと考えられています。

ちなみに近年の研究では、小吉秀勝はあくまで秀吉の甥として遇せられたのみで、養子ではないとも説も出ているそうです。

確かに跡継ぎとして兄の秀次を養子として確保できたのだから、小吉秀勝を必ずしも養子とする必要はありません。

果たして真相はどうだったのか、今後の究明がまたれます。

キリシタンに憧れた?

九州征伐で活躍した小吉秀勝(イメージ)

小吉秀勝は天正13年(1585年)9月に近江勢田城(滋賀県大津市)を与えられました。

その翌月に江姫(西川愛莉)を正室に迎え(時期については異説あり)、後に一人娘の豊臣完子(さだこ)を授かっています。

小吉秀勝は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を飾り、5千の大軍を率いて秀吉に従いました。

赤間関(山口県下関市)から小倉(福岡県北九州市)に上陸し、攻め落とした豊前馬ヶ岳城(福岡県行橋市)に入ります。

続く岩石城(がんじゃくじょう。福岡県添田町)攻めでは総大将を務め、力押しの末に奪取しました。

同年5月には島津義久が降伏して九州征伐は終結し、小吉秀勝らは凱旋します。

途上の博多(福岡県福岡市)で宣教師らと交流し、キリシタンに興味を持ったそうですが、秀吉が発した伴天連追放令の影響によって受洗は叶いませんでした。

その後も小吉秀勝は活躍しますが、詳しくは後編で紹介いたしましょう。

次回【後編】に続きます。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の考察はこちらの記事でも紹介しています。合わせてご覧ください。

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※参考文献:

桑田忠親 編『豊臣秀吉のすべて』新人物往来社、1981年9月 宮本義己『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ、2010年9月

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