【豊臣兄弟!】残虐無能な殺生関白は捏造?母に愛された秀次(山田涼介)粛清は豊臣滅亡を招いた最大の冤罪
「わたしはもっともっと偉くなって、母上にも喜んでいただきまする」
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第39話『茶々の本心』では満面の笑みを浮かべて、大好きな母・とも(宮澤エマ)と談笑する豊臣秀次(山田涼介)が描かれていました。
天正13年(1585)、養子の羽柴秀勝(於次丸/柊木陽太)は病の床に臥せり「年は越せぬ」という深刻な状況に。
秀吉の「後継問題」がクローズアップされるなか、有力候補で秀吉の甥・豊臣秀次が立派な姿で登場しました。
秀吉に「近江の差配はどうじゃ」と尋ねられ、「城の普請も進み、安土城下に負けない賑わう町になっています」と誇らしげに報告する秀次は、40万石の大大名になりました。
秀次は順風満帆、母とも相変わらず仲良しで、「殿下の後を注ぐのは私。そして母上をもっと喜ばせたい」と満面の笑みを浮かべる孝行息子ぶりを発揮。この頃が、母子が一番の絶頂期だったのかもしれません。
この先、秀次は秀吉に天国から地獄に落とされ、家臣・妻子まで巻き込む凄惨な最期を迎えることに。
秀次、ともの最期に関して、下記記事でも紹介しています。ぜひ合わせてご覧ください。
そして、母は三人の息子すべてを失い弔いながら豊臣家の終焉を見届けるという、過酷な人生が待ち構えています。
秀次といえば、秀吉の政争の道具として幾度か養子に出されるも活躍し関白の後継まで上り詰めるも、悲劇の最期を迎えた人物として知られていますが、残酷・激情家・女狂い・裏切り者の謀反人など、悪評も付きまとっていました。
ただ、これらの悪評は、後世の創作・誇張・政治的プロパガンダによるものという説が、最近では有力になってきたそうです。
実は、近江八幡城主として街の繁栄の基盤を作り名君とも評価されている豊臣秀次。
ドラマの母息子関係の展開を振り返りつつ、今回は史実でも母に愛されていた名君・秀次の功績を探ってみました
秀次と前野長康。秀次失脚に連座し、長康も切腹する運命に。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
ドラマでは幼い頃から相思相愛の親子幼い頃の万丸(のちの秀次)は、ともの後を追いかけ回す甘えん坊で、母はそんな息子を目の中に入れても痛くないほど可愛がっていまた。
そんな子を、秀吉・秀長兄弟からの命令で、宮部継潤(ドンペイ)に人質として差し出した時のともの慟哭や、「お腹の弱い子だから」とお手製の撫子刺繍入りの腹巻きを渡した場面は忘れられません。
一番可愛い盛りで見守りたい時期に養子に出した子が、無事に立派な若者に育って、どれだけ嬉しかったことか。
甘やかしたい時期に手放したことを埋め合わせるように、甲冑姿の息子に、「お前はお腹が弱いから」と腹巻きをさせようとしました。
この時、秀次は17歳頃。そんな母に照れてうっとうしそうにはせず、素直に可愛がられている姿は、万丸のままでしたね。
史実では、万丸は4〜5歳で宮部継潤に養子にだされ次兵衛尉(吉継)、ついで三好康長の養嗣子となり三好信吉、秀吉が天下人の道を進み始めたころ羽柴秀次、そして豊臣秀次となりました。
次男・秀勝は、成長し秀吉の養子に、三男の秀保は、秀長の養子になりましたが、二人とも秀次とは違い、幼少期は母の側で育ったそう。
母にしていれば、幼子の頃に手放した秀次は、ことさら可愛かったと思います。
秀次の成長を喜び、頬を触る母・とも。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
40万石の大大名に成長した秀次秀次は、天正12年、秀吉VS徳川との戦いで四隊編成・第四隊の総大将を務めるも惨敗。
敗軍の将から始まった秀次ですが、その後「紀州征伐」「四国征伐」では副将として活躍し汚名返上を果たしました。
天正13年(1585)、秀次は近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の五郡を与えられ、本人分20万石、宿老衆分23万石、合わせて43万石を与えられます。
わずか18歳で、豊臣一門で秀長に次ぐ2番目の大身となったのでした。
ドラマでは、母に「もうあなたは、40万石の大大名様なんだから!」と言われ、秀次は「もっと偉くなって母上に喜んでもらいたい」と答えました。
こんなことを最愛の息子にいわれたら、母としては最高に幸せでしょう。
ともは「藤吉郎に似てしまったわね」と言いつつもやはり嬉しそう。
「いつの日か私が殿下の後を継いだら、母上は大政所様ですぞ」
「あら…悪くないわね」
「皆の者、苦しゅうない」と芝居がかってともが言うと、「ははあぁぁぁ」と平伏してみせる秀次。
「お似合いですよ」と二人とも笑いながら、大政所様ごっこをしていてとても楽しそうで幸せなシーンでした。
こんなに仲のいい親子が、この10年後の文禄4年頃からは奈落の底に突き落とされると思うと、微笑ましい反面、切な過ぎました。
無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相
秀次と母・ともの幸せな時間。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
秀次への愛が深かったことが推測できる史実この母と息子が仲良しだったかどうかわかる一次史料はありませんが、間接的な記録から良好な親子関係だったことが推測できます。
天正19年(1591年)、24歳ごろに秀次が関白になると、ともと夫・三好吉房は聚楽第に移り住んだ記録があり、親として近くにいたことがわかります。
また、文禄4年(1595年)に秀次が切腹し、孫たち(秀次の子供たち)も三条河原で処刑された後、ともは出家しました。
法名を日秀とし、秀次一族の菩提を弔うために、嵯峨野に善正寺、村雲に瑞龍寺(後に近江八幡へ移転)を建立。
秀次の、強い愛情と悲しみの表れといわれています。
次男・秀勝は、朝鮮出兵中に病死、遺体は京都の嵯峨に運ばれとも自身が葬り、三男・秀保は十津川で急死するも、秀吉が葬儀を阻止しようとしたために、ともが交渉して葬儀を実現。
三人の息子の死を悼んだものの、やはり秀次の場合はあまりにも悲惨な最期だったために、出家して寺を建立するという行動に出たとわれています。
18〜19歳で築城と近江八幡城下町を築く
ドラマでは大大名となっていた秀次。この18歳〜19歳頃にはさまざまなことを行なっています。
⚫︎八幡山城の築城と城下町(近江八幡)の建設
八幡山に城を築き、安土城下の商人・住民を計画的に移住させ、城と町を一体で整備、近代的な都市計画の基礎を築く。
⚫︎八幡堀の開削
琵琶湖と城下町を直結する全長約6kmの水路を掘り、通る船に八幡への寄港を義務づけ、物流拠点として発展させる。
⚫︎「八幡山下町掟書」(13ヶ条)の発布と楽市楽座の実施
信長の安土城下町掟を踏襲しつつも、独自の規定も追加。座の特権を廃し自由商業を推進、周辺の市を八幡に集める政策で商業を活性化し、後の『近江商人』繁栄の基盤を作る。
⚫︎領内統治の善政
検地や訴訟処理を細やかに行い、領民・寺社から信頼を得た。渇水による水争いが流血騒動になったとき、自ら宿老・田中吉政と共に現地を見聞し、皆が納得する裁定を下した『水争いの裁き』の逸話が残る。
下の写真は『八幡山下町中掟書』。フリーマーケットOK、近江を行き来する商人は八幡で止まること、犯罪者を罰するのは本人のみで、一族や近所の人など連帯責任は押し付けないなど、いろいろな(けれど、住みやすそうな)ルールが書いてあります。
八幡山下町中掟書(近江八幡市/近江八幡市歴史浪漫デジタルアーカイブ)
20~23歳頃、城下町を本格的に繁栄させる天正15~18年(1587~1590年)、20~23歳頃には以下のことを行なっています。
⚫︎近江領国の安定経営の継続
約5年間の在城で城下町を本格的に繁栄。
⚫︎天正18年(1590年)・23歳頃:尾張・北伊勢へ転封
清洲城を居城とする約100万石の大大名に。尾張でも柔軟な検地や民政を行い、安定した統治を続ける(近江時代の延長線上の政策)。
最も最大の功績とされているのは、近江八幡での城下町建設・楽市楽座・八幡堀による物流革命です。
秀次が若くして優秀な内政官・都市計画者だったことを示す一次史料に裏付けられた功績で、現在の近江八幡の繁栄の礎となっています。
長浜自体は直接の居城ではなく、北近江支配の一部として宿老(山内一豊など)を通じて間接的に関与した形です。
秀次の功績を辿る近江散歩わずか18歳にして近江43万石の領主となった豊臣秀次。自由商業都市としての発展を目指した秀次は、楽市楽座の施行、八幡堀の活用、各地から有力な商人や職人を呼び寄せるなど、あきないの町としての基盤を築きました。(近江八幡市HP「豊臣秀次の思い出)
⚫︎『新町通り』
近江商人の屋敷跡が多く残るエリア。今もなお瓦屋根の商家・町屋などが立ち並ぶ、国の重要伝統的建造物群保存地区。
⚫︎『京街道道標』
滋賀県近江八幡市にある街道時代の標石。
⚫︎『八幡堀』
八幡堀両岸が国の重要伝統的建造物保存地区に指定。
⚫︎『日牟禮八幡宮』
古くから近江商人の信仰を集めた氏神を祀る古社。
「歴史は勝者によって作られる」
天正19年(1591)、秀吉と茶々の子・鶴松がなくなり、秀長は改めて正式な後継者となり、二代目関白への道を進み始めたのですが……ここからが悲劇の始まり。
※鶴松の死に関しては、下記記事で詳しく紹介しています。
【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望秀吉の天下統一事業の中で、最も悲惨で最も謎に満ちた事件とされる『関白・秀次事件』へとつながるのでした。
「殺生関白」など極端な悪行の逸話は、後付けの捏造である可能性が高いと言われています。
歴史は、勝者によって作られるもの。
秀吉による残虐な処刑を取り繕うため「秀次は悪い奴だった、殺しても仕方がない」という理由を付け、世間を納得させる必要があったという説、徳川の世になり秀吉・秀次が貶められたなどの説があります。
秀次の謀反の罪や切腹に至る経緯などにも、さまざまな説がありますが、いずれにしてもその死が引き金となり、豊臣は20年後の慶長20年(元和元年・1615)の『大坂夏の陣』で滅亡しました。
秀次の真の姿は、実は優れた行政手腕を持つ「名君」の器を秘めた青年で、“絶対に殺してはいけない人物だった”……とも言われる秀次。
これから、さらに研究が進んで、謎の部分がより解明していくかもしれません。
最後に秀次が高野山で切腹したのは、文禄4年(1595)。
ドラマの主人公、秀長が亡くなったのは天正19年(1591)なので、秀次の最期は描かれないかも。
最初は他責思考ぶりを発揮し「大将の器ではない」と秀長に思われてしまった秀次。「殿下のためなら妻はいくらでも娶る」発言で秀吉も「性格に難あり」とちょっと引き気味……そんな様子でした。
徐々に、尊敬する叔父の政策への不信感などから悩み、その先の決別を思わせる場面は描かれるかもしれませんね。
今後の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の話題に関して、下記記事でも紹介しています。ぜひご覧ください。
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・豊臣秀次 殺生関白の悲劇 (PHP新書 197)小和田 哲男
・羽柴秀次とその時代 (戦国大名の新研究)黒田基樹
・近江八幡市HP「豊臣秀次の思い出)
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