『豊臣兄弟!』あさひ犠牲の天正地震の悲劇は序章にすぎない!豊臣の権威を砕く「二度目の大地震」という絶望
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第40回『あさひの輿入れ』。
豊臣秀吉(池松壮亮)VS 徳川家康(松下洸平)の戦が、火蓋を切って落とされようとした時のことです。
秀吉の運命を狂わせ、逆に家康の大ピンチを救うことになった、天変地異『天正地震』が起こりました。
※第40回の話題に関してはこちらの記事をご覧ください。
【豊臣兄弟!】あさひ&夫・吉成はその後どうなった?用済みとされた数正…史実での切なすぎる結末史実では、両武将の明暗を分けることになった大地震は2回起こっています。
1回目は、今回描かれた、天正13年(1586)11月29日、日本の中部で発生発生した巨大地震『天正地震』です。
史料が少なく、明確なことは判明していないそうですが、およそマグニチュード7〜8前後、複数の断層が連動して発生した可能性があるのでは……と推測されるそうです。
そして、10年後。文禄5年7月13日『慶長伏見地震』。
この2回の巨大地震がなければ「豊臣政権は続き、徳川の江戸時代はなかった」とまで言われるほど、両武将二人の運命を大きく変えるようになった『天正地震』『慶長伏見地震』はどのようなものだったのでしょう。
「そのとき、秀吉はどう動いた」「2回の巨大地震は秀吉と家康の運命をどう変えたのか」を探ってみました。
「あわてて馬を乗り継ぎ大阪城に逃げ帰った」秀吉
『天正地震』発生当時、石川数正の出奔後もあり家康征伐の戦に備え、兵糧を蓄えている前線基地・美濃の大垣城を視察していました。
その視察の帰りに、かつて明智光秀の居城であった坂本城に立ち寄ったところ、この大地震に遭遇したと伝わります。
※『天正地震』に関して、合わせてご覧ください。
『豊臣兄弟!』本当にあった“天正の大地震”とは?規模と被害の全貌――秀吉が家康と和睦した真相坂本城自体の被害は比較的軽かったため、秀吉は無事でした。
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』などによると、この大地震に遭遇した秀吉は、
「手がけていた一切のことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶように大坂に避難した。そこは彼には最も安全な場所と思えたからである」
と、いう内容が書いてあるそう。大慌てで馬を走らせる秀吉の姿が目に浮かぶようですね。この時、秀吉の脳裏に浮かんだのは何だったのか……寧々(北政所)の安否か、それとも「城」のことか。
一方、大坂城も揺れたものの頑強で倒壊せず、被害は少なかったようです。(『顕如証人貝塚御座所日記』など)
大被害の秀吉側とほぼ被害のない家康側
この『天正地震』の約2週間前のこと。
秀吉は真田昌幸に、「家康を成敗する」「正月十五日以前には必ず出陣する」という旨の徳川攻めを決意した旨の書状を送っています。(真田昌幸宛秀吉書状/『大日本史料』『豊臣秀吉文書集』など)
この後、起こったのが『天正地震』です。当然、秀吉は徳川との戦どころではなくなります。
兵糧を蓄えた前線基地・大垣城は、水辺の地盤が弱い場所にあったために全壊。
織田信雄の居城・伊勢の長島城は倒壊、秀吉が始めて城持ちになった長浜城はこの頃、山内一豊が城主でしたがやはり倒壊。
一豊の一人娘だった数えで6歳の与祢(よね)が、乳母とともに倒れた建物の下敷きになって亡くなりました。
ほかにも、飛騨・帰雲城(内ヶ島氏理)は、山崩れで城・城下ごと埋没し内ヶ島氏一族・領民ほぼ全滅(滅亡)。
帰雲城に関しては、こちらの記事で詳しく紹介しています。
戦国時代に栄華を誇った帰雲城、天正大地震で一夜にして忽然と姿を消す前田利家の弟・前田秀継の越中・木舟城は倒壊、陥没、城主夫妻は死亡ほか、大きな被害を被った秀吉側。
一方、家康の三河以東の領地は被害がほとんどなかったそうです。
『天正地震』で家康討伐を諦める
『天正地震』は、秀吉には以下の政治的影響を与えました。
家康討伐計画の中止秀吉は前線基地・大垣城の全壊・焼失ほか、同盟勢力の城が壊滅的被害を受けたため、兵糧や軍勢の展開が困難になってしまいました。結果、武力での家康討伐を中止するしかありませんでした。
外交による臣従へと方針転換武力討伐ができない代わりに、家康を懐柔するため、秀吉は天正14年(1586年)にすでに結婚していた妹・旭姫を強制的に離縁させ、家康に正室と輿入れさせました。
さらに、母・大政所を人質として送り家康を上洛させて臣従させました。
大政所を人質として差し出す件は、次回「家康の野望」で描かれます。
【豊臣兄弟!】母・なか(坂井真紀)までもが人質に…第41回『家康の野望』あらすじ&場面写真、相関図が公開関白の母と妹を差し出された家康は、さすがに上洛せざるおえなくなります。これにより家康は豊臣政権の重臣となりますが……このとき、旭姫は数えで44歳、家康は45歳。
多くの専門家が「もし、大地震がなければ家康は秀吉に滅ぼされ、江戸時代はなかった」といわれるほど、秀吉にとって大きく運命を変えることになる大地震でした。
この地震が起きなければ、徳川家康は二ヶ月後に秀吉の大軍の総攻撃を受けるはずであった。(『天災から日本史を読みなおす』磯田道史)
そして、この地震がなければ。
妹・旭姫は無理矢理、離縁させられて44歳という年齢で家康に嫁ぐ必要もなかったかもしれません。
【豊臣兄弟!】あさひ(倉沢杏菜)が家康と強制結婚!悲劇的な末路の真相、引き裂かれた夫婦の絆…
秀吉に結婚生活を引き裂かれた、旭姫と副田吉成。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)
二度目の『慶長伏見地震』で豊臣政権崩壊へさらに、10年後、秀吉の運命を変える大地震が起こります。
文禄5年(1596)に起こった『慶長伏見地震』です。
山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震で、推定マグニチュードは7.5前後.
畿内の広範囲で震度6くらいの揺れで、死者は京都・堺だけで1000人以上(より多いとする説も)に上りました。
地震が起こったのは深夜で、豊臣秀吉は自身の隠居城である指月伏見城(現在の京都市伏見区付近)に滞在していたそうです。
天守や御殿は倒壊し、城内で数100人(記録によっては600人前後)が圧死しましたが、秀吉本人は無事でした。
秀吉は、「寝ていた大殿で幼い秀頼を抱えて庭に飛び出した」「倒壊を免れた台所で一夜を過ごした」といった記録が残っているそうです。(『日本西教史』(ジャン・クラッセ著、または関連するイエズス会の書簡・年報)
記録は宣教師が現地の報告を基に書いたもので、一次的な目撃に近い記録と考えるとか。
秀吉は、翌朝には近くの木幡山(こわたやま)に仮小屋を設けて避難し、すぐに同地での新城・木幡山伏見城の再建を命じました。
この大地震の際、加藤清正が真っ先に駆けつけて秀吉を助けたという逸話も有名ですが、清正自身の書状などから、後世の創作とする見方が有力のようです。
地震が起き豊臣秀吉のもとに駆けつける加藤清正。(歌川芳虎)wiki public domain
伏見城崩壊で権威は失墜、民の不満も募る二度目の『慶長伏見地震』は秀吉に大きなダメージを与えました。
豊臣政権の象徴・指月城の壊滅秀吉が隠居後の住まいにしようと期待していた完成間近の伏見城の天守や御殿が崩壊。
豊臣政権の象徴ともいえる城の壊滅は秀吉に大きなダメージを与えました。
というのも、秀吉は先の天正地震を経験していたため、城の普請にあたり耐震対策に気をつけるよう、担当の京都所司代の前田玄以に手紙を書いています。
「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まゝ、いかにもへんとうにいたし可申候間、いそきさしつ大工一人めしつれ候て、こし可申候」(『豊太閤真蹟集』)
現代語に訳すると、「伏見の普請では「なまつ」が大事なので、十分に対応しなければなりません。急いで指図するための大工を一人連れて来るように。」というような内容です。
「なまつ」とは、「ナマズ」のこと。昔からなまずが暴れると地震が起きるという言い伝えがあったそうですが、地震と鯰を関連づけた記述としては、現存最古の史料だそうです。
天下人とはいっても天変地異には敵わず。
方広寺大仏の損壊
秀吉は、東大寺の大仏にならい、方光寺に大仏殿の建立をしていました。
けれど、巨大な大仏(京都大仏)は、胸や手が崩れるなど大きく破損。秀吉は怒り弓を放ったという逸話も残ります。
大仏殿自体は比較的無事でしたが、豊臣政権の権威の象徴が失われました。
その他にも、東寺・天龍寺など京都の主要寺院が倒壊・損壊し、大坂・堺でも家屋倒壊が相次ぐなど大きな被害を受けたのでした。
地震の事後処理で秀吉への不満が増大
秀吉は、木幡山への新城(現在の伏見桃山城の原型)再建を命じ、諸大名に普請を割り当てました。
このことは朝鮮出兵(文禄の役)の戦費・人的負担が続く中での追加負担となり、大名や領民の不満は増大。朝鮮出兵の講和交渉(明・朝鮮使節との交渉)も停滞・決裂を招くことなったそうです。
「皆のための復興より、自分の権威回復を優先した対応が、民心の離反を招いた」と指摘されている秀吉の事後処理。なんだか、現代にもあるような話ですね。
そして、これらのことが慶長の役(第二次朝鮮出兵)へとつながり、さらに国力も消耗。
これらの失策は、「豊臣政権に不満を持つ人々の心が、徳川へ移り始めたきっかけ」となり、豊臣政権の崩壊と徳川政権の誕生を招くことになりました。
豊臣政権の崩壊に関して、こちらの記事でも紹介しています。
どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは
『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城 wiki public domain
一方、家康の動きは…秀吉の大被害に比べると、家康の関東領国はほとんど被害を受けませんでした。畿内が混乱する中で、家康は力を温存することができたようです。
秀吉が、豊臣政権の再建と戦争継続に追われる一方で、家康は領国経営を着実に進め、国力を蓄える時間を得ました。
ちなみに、約260年にわたり尾張徳川家の居城となった名古屋城は、地盤的にも最高だったとか。家康は、秀吉の城崩壊から堅牢な城の大切さを学んだのでしょうか。
名古屋城は清洲越し以降、宝永地震(一七〇七年)、安政東海地震(一八五四年)、濃尾地震などの大地震に見舞われた。しかし、その際の被害は、石垣や土塀、櫓の一部にとどまっている。
<備える>名古屋大減災連携研究・福和伸夫教授 災とSeeing(1)清洲越し 「事前復興」家康の先見(中日新聞)
腹の底が読めない徳川家康。(NHK「豊臣兄弟」公式サイトより)
最後に…『天正地震』『慶長伏見地震』は、「秀吉を翻弄した大地震」として、豊臣政権の権威失墜と財政悪化を加速させました。
秀吉は約2年後の1598年に死去。政権は急速に不安定化していきました。
「豊臣兄弟!」も残すところ8話くらい。最終回48話は、連年通り12月中旬くらいと予測されています。
『旭の輿入れ』から、飛ぶ鳥を落とす勢いだった秀吉の勢力も徐々に暴走を始め、危機が訪れていくのでしょうか。
主人公の秀長は天正19年(1591)1月22日に病死しているため、
文禄5年(1596)『慶長伏見地震』文禄5年(1596)なので、そこまでは描かれないかもしれません。
キラキラと輝き少年漫画のように希望いっぱいので始まった兄弟のサクセスストーリーでしたが。
「万事円満な世」を目指してきた秀長も、「大切な人」として家族や家臣の名を挙げていた秀吉も。
いざ太閤になると、「家」の存続だけを優先するようになり、大切な存在を犠牲にしていく。
「家を守る…それが何だというのじゃ!」という寧々(浜辺美波)の叫びが、蘇ります。
「豊臣兄弟!」に関する話題は、以下の記事もオススメです。ぜひ合わせてご覧ください。
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・『今こそ知っておきたい災害の日本史』岳真也(PHP文庫)
・災とSeeing(1)清洲越し「事前復興」家康の先見(中日新聞)
・日本史を地学から読みなおす (講談社現代新書 2795)鎌田浩穀
・『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)磯田道史
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