【ブラッサム】珠のモデルと結婚も束の間、置き去りにされ…木村保(金子大地)のモデル・藤村忠の生涯 (4/6ページ)
続いて千代が書いた「墓を発く」は、大正11(1922)年5月の『中央公論』に掲載されています。
忠との札幌生活は、千代が作家として世に出た時期と重なります。
ところが、この作家としての出発が、二人の別れにもつながりました。
原稿の採否を確かめるため、千代が上京。その後原稿料を受け取って岩国へ帰郷し、東京で小説家の尾崎士郎と出会い、やがて彼と暮らすようになります。
結局、千代は忠の待つ札幌へは戻りませんでした。
大正13(1924)年、忠と千代の協議離婚が成立。京都から東京、そして札幌へと続いた二人の関係は、婚姻のうえでも終わりを迎えました。
千代との別れを経たあと、忠は新たな場所で活躍していきます。
昭和3(1928)年、忠は10歳年下の善浪ミツエと再婚。孝と悌子という二人の子供にも恵まれました。
勤務先の北海道拓殖銀行でも出世を重ねて役員に昇進。昭和25(1950)年4月刊行の『北海道拓殖銀行五十年史』には忠の名前が「常勤監査役」として掲載されています。
さらに忠は、金融制度の歴史について研究を進めていました。
北海道大学の学位論文目録には、「各国不動産金融制度の発達に関する研究」という論文が掲載。