【豊臣兄弟!】秀吉・秀長の“怒涛の接待”が解いた家康の警戒…後の関ヶ原へと繋がる、家康上洛の皮肉な運命

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【豊臣兄弟!】秀吉・秀長の“怒涛の接待”が解いた家康の警戒…後の関ヶ原へと繋がる、家康上洛の皮肉な運命

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」では、徳川家康(松下洸平)の上洛をめぐる豊臣秀吉(池松壮亮)・秀長(仲野太賀)のおもてなしが描かれました。

史実では、妹・あさひ(倉沢杏菜)を嫁がせ、母・大政所(坂井真紀)まで人質として差し出した秀吉は、家康の疑念を解くため、さまざまな手を打ちます。

今回は、秀長の屋敷での饗宴から大坂城での対面まで、豊臣兄弟が家康に仕掛けた懐柔策をたどります。

第41回「家康の野望」に関しては下記記事でも紹介しています。

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家康を饗応する秀長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

母と妹を差し出しても、消えない家康の疑念

1586年(天正14年)10月24日、徳川家康は重い腰を上げ、上洛のために浜松を出立します。もちろん、上洛に応じたのは、あさひの輿入れとともに、大政所が岡崎に入ったこともあってのことでした。

大政所は、家康が上洛した際にその身の安全を保証する人質として、徳川家に送られたのです。

これは言い換えれば、秀吉に対する家康や徳川家臣団の疑念が非常に大きかったことを意味します。秀吉としては、大切に想う実母を危険にさらすことで、ようやく家康との主従関係を結ぶことができたのです。

家康に嫁いだあさひ(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

しかし、用意周到な秀吉は、これ以前から家康への懐柔策を進めていました。あさひを家康のもとに嫁がせた後の1586年(天正14年)10月5日、秀長と家康を従三位権中納言に任じます。そうです、秀吉お得意の官位による大名操縦術を繰り出したのです。

このとき家康は、秀吉の実の妹を妻にしていたため、秀吉の義理の弟という立場でした。そして、実の弟である秀長と同じ日に、しかも同じ官位に昇進させたことに意味があったのです。

つまり秀吉は、家康を右腕ともいうべき秀長と同等の「弟同然」という扱いにしました。これは、秀吉が播磨攻略を進めていた時期、黒田官兵衛(倉悠貴)に「弟の秀長同様に信頼している」と書いた書状があるように、いわば秀吉の決め台詞であり、最大限の信頼を表す言葉だったのです。

秀吉への警戒心を露わにする家康(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

しかし、それでも家康の秀吉に対する疑念は払拭できませんでした。その証拠に『多聞院日記』には「昨日二十四日、家康六万騎にて在京」とあるように、家康は6万という大軍勢を率いて上洛したのです。

要するに、妹と母を差し出し、弟と同じ官位を与え、弟同然の扱いをすると言われても、徳川家にとって秀吉は、まだまだ信用できない相手でした。

ですから、6万という軍勢が実際の数だったかどうかはともかく、可能な限りの軍事力をもって上洛したことは、家康の身に万が一のことがあれば、豊臣家との戦争も辞さないという覚悟の現われであったのです。

裏を返せば、それほどまでに、この上洛は家康にとって命懸けのものでした。そのピリピリするような緊張感は、『豊臣兄弟!』で描かれた秀長屋敷の前庭にたむろする本多忠勝(夏生大湖)らの様子からも伝わってきたのではないでしょうか。

秀長の屋敷で始まった、秀吉流「おもてなし大作戦」

大坂に入った家康は「宰相殿宿所」、すなわち秀長の大坂屋敷に宿泊しました。そしてその夜、家康をはじめ、疑心暗鬼に包まれた徳川家臣団の度肝を抜くような、豊臣兄弟の「おもてなし大作戦」を受けることになるのです。

秀長ら豊臣側からの供応を受ける家康(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

この夜のことは、『多聞院日記』に詳しく記されています。秀長は350升という大量の酒を用意し、ヤマトをはじめ方々から芸能者を集め、能や猿楽を演じさせました。

そして『松平家忠日記』には、翌日に大坂城で対面する予定だった秀吉が、その場に突然現れたことが記されています。

それによると、秀吉は家康の手を取って奥の座敷に連れていき、自分の思いのたけを語りました。この秀吉の打ち解けた言動により、双方ともに非常に親しい雰囲気になったとされます。

そして話が一段落すると、秀吉が自ら家康にお酌をしました。これには、徳川家臣団の面々も驚くだけでなく、少なからず感動を覚えたようです。

秀長ら豊臣側からの供応を受ける家康(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

このエピソードは、秀吉の「人たらし」としての真骨頂ではないでしょうか。関白という人臣最高の地位にありながら、何の前触れもなく突然やってくる。包み隠すことなく自分をさらけ出す。そして、自らお酌をする。これこそ、秀吉流のおもてなしだったのです。

また、江戸時代中期に書かれた『東武談叢(とうぶだんそう)』には、この場面で秀吉が「明日、大坂城中では作法通りに対面してほしい」と頼んだことが記されています。このやり取りは、『豊臣兄弟!』でも描かれていました。

大坂城で見せた秀吉の度量と、家康が選んだ道

翌日、家康は大坂城に登城します。このとき家康は、約3千人の家来を連れて大坂城へ入ったと『多聞院日記』には記されています。

前夜、豊臣兄弟からこの上ない饗宴を受けたにもかかわらず、家康主従がまだ警戒の念を解いていなかったことが伺えますよね。

さて、これに対して秀吉はどうしたでしょうか。『東武談叢』によれば、大坂城の本丸御殿の玄関まで自ら出迎え、ここでも家康の手を取って御殿に入っていったと書かれています。

大坂城で家康を出迎える秀吉(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

また、この出迎えには、家康との交渉の仲介役を果たした織田信雄(山脇辰哉)も同道するという念の入れようでした。つまり、よく見知った信雄がいることで、家康の警戒心を和らげようとしたわけです。

そして注目すべきは、庭にいた家康の家来をみな本丸に招き入れ、逆に秀吉の家臣は、わざと本丸の外に待機させていたという点です。

このようなことが書かれた『東武談叢』は、確かな成立年も著者も不明で、史料としての信頼性は決して高くありません。ただし、江戸時代に秀吉と家康の関係がどのように認識されていたかを、伺い知ることはできます。

つまり秀吉は大坂城を武装解除し、いまだ緊張状態にある徳川勢を迎え入れたのです。これは、天下人・秀吉の度量の大きさを表すエピソードであると同時に、家康上洛時の緊張した情勢を今に伝える話として、貴重なものと考えてもよいのではないでしょうか。

大坂城で秀吉に謁見する家康(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

この後、家康は秀吉に謁見し、豊臣家に臣従することを誓います。そして秀吉と家康は親しく茶道具などを見物し、千利休(吉岡秀隆)の点前で茶を楽しみ、天守に上がったと『東武談叢』は伝えています。

そうです、『豊臣兄弟!』で描かれた、大坂城の天守で秀吉と秀長が語り合う場面には、家康も居合わせていたことになるのです。

ここにおいて家康は、娘を嫁がせて縁戚関係にあった北条氏との関係を事実上断ち、秀吉とともに歩んでいく道を選びます。

この4年後、小田原征伐によって秀吉は天下統一を果たします。ただそれは、ドラマでも家康が「あ奴らよりも長生きをして天下をとる」と語ったように、十年後の関ケ原、大坂の陣を経て豊臣家滅亡に繋がっていくのです。

このように、豊臣兄弟のもてなしによって結ばれた主従関係は、決して永遠のものではありませんでした。そしてこの上洛は、後の天下の行方を考えるうえでも、実に重要な出来事だったのです。

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