【豊臣兄弟!】絶頂の兄弟を襲った暗雲!秀吉の『北野大茶湯』がたった1日で中止になった本当の理由
「身分は関係なく、誰でも参加OK!」
「高価な道具を持っていなくてもいいから、おいで!」
そんな前代未聞の『北野大茶湯』を行ったのは、豊臣秀吉でした。
天正15年(1587)、京都の北野天満宮境内とその周りの北野の森で開催されたビッグイベントです。
秀吉に臣従した徳川家康は、天正15年に家康従二位・権大納言となり秀吉の弟・秀長と肩を並べ、豊臣政権の支配体制は一層強固に。
5月には島津義久が降伏し、西国をほぼ手中に収めました。
さらに、9月には御自慢の『聚楽第』も完成し、関白としての本拠を京に構えます。
秀吉にも豊臣家を支え続けてきた寧々にとっても、「もうすぐこの世の春」なお祝い気分でしょう。
ドラマでは、秀吉(池松壮亮)と寧々(浜辺美波)が手に手を取って仲良く歩く様子の場面が……この頃が、一番いい時だったのかも知れません。
その“豊臣の勢い”を内外に示すための祝賀・示威の場として開催したのが『北野大茶湯』でした。
けれども、その茶会は、たった1日で打ち切りになりました。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第42話『北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)』では、この茶会が舞台となります。
史実でも、わずか1日で中止になった幻の『北野大茶湯』はどのような内容で、なぜ中止になってしまったのでしょうか。
その謎を探ってみました。
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『豊臣兄弟!』秀吉(池松壮亮)の大坂城は地下7mに眠っている!徳川が封印した“漆黒の巨城”の真の姿
豊臣の権威の象徴『聚楽第』と同時に企画した茶会
第39回『茶々の本心』で、秀吉(池松壮亮)が、家康の重臣・石川数正(迫田考也)を呼び寄せ、「すごいじゃろ!」とばかりに見せびらかしていた、模型の『聚楽第』を覚えている人も多いでしょう。
史実では、天正15 年(1587)9月、豊臣の富と権力の象徴である聚楽第が完成。
さらに、秀吉は前年から15年5月にかけて行われた『九州攻め』で勝利を収めて京都に戻っていました。
そして、“昇り龍のごとき勢い”を持つ自分の権威を示す目的で『北野大茶湯』を企画したのです。
秀吉が極めて平民的に、普遍的に、昇平の気象を発揚し、人心を緩和す可き一大方便であった。(北野大茶湯輯成『北野大茶湯-徳富蘇峰氏』)
天正15年(1587)7月28日、秀吉は、京都や奈良、堺などに『北野大茶湯』のおふれ(告知)を出したのでした。
秀吉が見せびらかしていた『聚楽第』の模型。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」)
「誰でもおいで」けれど「来ないやつは二度とお茶禁止」『大茶湯之事/太閤記』ほかに記されている「秀吉のおふれ書き」の内容を、簡単に現代語で挙げてみます。
・来たる10月1日より10日間、大規模な茶会を開く
・茶会では秀吉公が、自ら自身の名品を数寄者(芸道に熱心な人物の俗称)に公開
・ドレスコードなどないから気軽に
・「茶の湯」に心がけある者なら、町人でも百姓だも誰でも参加していい
・その代わり釜、釣瓶、呑物を一つを持ってくるか、茶道具がない者は替わりの物でもいいので持参して
・お茶は高いから“麦こがし”(麦を煎ってから挽いた粉)でもいい
・日本人以外の人も参加OK
・遠方から参加する人が大変だから10日間、開催する
そして、「茶の湯の心得」がある者には、秀吉が目の前で茶を立てるという、なんとも面白そうな茶会です。
従来、茶の湯といえば、大名や豪商など限られた人が楽しむものだったの。けれど、秀吉は垣根を取り去り「天下に向けて」開いたのでした。
参加の敷居が低い茶会で多勢の人を集めれば、その参加者たちが他の人に「秀吉の茶会を自慢する」…そんな無料の伝聞による宣伝効果も考えたのかも。
日本中に「秀吉すごい!」が広がることを狙ったとしたら、秀吉はアイデアマンですね。
ただし、気軽に参加できる分「参加しない者は今後茶の湯禁止」という厳しい条件付きでした。
茶会の詳細やルールが書いてある『北野大茶湯の節御高礼』国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/731101
なぜ「北野天満宮」だったのか菅原道真を御祭神としておまつりする京都の北野天満宮は、天神信仰の発祥の地で、学問や和歌・連歌の神として、身分を問わず広く信仰を集めていました。
室町時代には、将軍の足利義満も北野天満宮を手厚く保護し、大きな催しを開いています。
なぜ秀吉は茶会の場をここにしたのでしょうか?
『北野大茶湯之記』などに伝えられる触書の内容、『兼見卿記』『多聞院日記』などの同時代日記も、開催場所を記録するのみで「なぜか?」の理由には触れていないようです。
のちに推測された理由としては「聚楽第」が近かった(約1kmで徒歩15分程度)ことが挙げられています。
大切な茶道具を運ぶにも近いほうが便利だったこともありそうです。
また、天満宮の周辺は広大な松原で、約1,000前後ともいわれる茶席を並べるには広さ的にぴったりでした。
そして、著名な学問・文化の神として多くの人から信仰を集める場所で茶会を開き、「自分も信仰心があり学問や文化にも通じる人物である」こともアピールしたかったのかもしれません。
(実際、秀吉は古典文学、連歌、連茶の湯、能楽ほか文化的修養を積むよう努力していました。)
『北野大茶湯図』浮田一蕙。天保14年(1843)前後に描いた想像図。北野松原の至るところで茶席を設ける人々を描く(文化遺産オンライン)
持ち運び可能な「金の茶室」を中央に『北野大茶湯』は、京都・北野天満宮の拝殿を3つに区切り、中央に秀吉自慢の「黄金の茶室」を運び込んで、秀吉の名物の茶道具を並べるという贅沢なもの。
主に秀吉と千利休・堺の商人津田宗及と今井宗久の三人が茶頭を務めました。
かの有名な「黄金の茶室」は、壁や障子の骨、柱や敷居までが「黄金」で、障子や畳み表は「真っ赤」だったとか。すごく気分的に疲れそうなカラーリング。
配色のセンスはともかく、特徴的なのは茶室は3畳ほどのコンパクトサイズの組み立て式で、いろいろなところに持ち運びできるタイプだったこと。
行く先行く先で、自分の財力や権力を誇れる……「経費をかけたぶん、その数倍も元を取る」なかなか現代のビジネスに通じるアイデアですね。
黄金の茶室(復元、MOA美術館)wiki public domain
茶会の当日は、京都はもちろんのこと大阪、堺、奈良からたくさんの人々が参加して、総勢800〜1,000人ほどだったといわれています。
参加者は身分を問わず公平にくじ引きで利休や秀吉などの各席に数人ずつ招き入れられ、御自慢の名物を用いて茶を供されたそうです。
秀吉は、午前中は茶を振る舞い、午後は会場を巡回視察していたとも伝わります。
ドラマでの、左:今井宗久(和田正人)・中央:千利休(吉岡秀隆)・右:津田宗及(マギー)(「豊臣兄弟!」公式サイト)
一大イベントがたった1日で終わったわけこの一大イベントが、なぜたった1日で終了したのか?の原因については複数の説があります。
⚫︎1日の夕方、肥後(現在の熊本県)で勃発した『肥後国衆一揆』の知らせが届いたから……というのが通説のようです。
處が、この催しも、九州征伐で熊本を興へた佐々成政が、検地が八釜しかつたがために、一揆が起こつてをり、その注進が頻々と来るやうになつたため、一日でピッタリ止めたといふのは、太閤の気前がよく現はれている所だと思ひます。(北野大茶湯輯成『北野大茶湯回顧』千 宗守宗匠)
けれど、一揆は7月から始まっていたために10日1日に初めて知ったとは考えづらいという説も。
いずれにしても、九州国分けで肥後一国を与えられた佐々成政は一揆を抑えきれずに責任を問われて切腹することになります。
【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)と対立し非業の末路…戦国武将・佐々成政(白洲迅)の壮絶な生涯⚫︎思ったより人数が集まらなかったので、これ以上恥をさらさないため。(京都人の反応を知る試金石だったのに当てが外れた)
⚫︎多くの参加者に茶を立て続け秀吉が疲れてしまった。
⚫︎1日で秀吉の自己顕示欲が満たされてしまった。
⚫︎10日間の予定だったが当日1日に変更になった。
など。
秀吉はこの茶会で、京都人に自分の権力や自分が茶湯のトップであることを知らしめるために開催したのに、思ったよりも人が集まらず、悪口を言われる前に「傷が浅いうちに中止しよう」という説も、頷けるような気もします。
ドラマでは一揆の知らせと刃傷沙汰がドラマでは、『肥後国衆一揆』の知らせが届いた説を取り入れるようです。
また、『北野大茶湯』は、秀次(山田涼介)が言い出しっぺで提案し、秀長(仲野太賀)がまだ時期が早いと反対します。
さらに、会場で秀吉の「キリシタン追放令」に恨みを抱く者による刃傷沙汰が……これは、ドラマオリジナルのストーリーでしょう。
ただ、秀吉が『バテレン追放令』を出したのは、北野大茶湯の数ヶ月前の6月19日です。
九州攻めの帰り道の博多でのことでした。
その内容は、「宣教師を20日以内に国外退去させる」などで、理由としては、
・キリシタン大名が領地内の寺や神社を壊し領民に改宗を迫った
・長崎一体が宣教師が治めるようになり武器を貯えるようになった
・入信しない日本人が奴隷として売られた
・キリスト教で結びついた領民と大名の一揆を防止
など。
ドラマでも描かれますが、キリシタン大名で利休七哲にも数えられる高山右近(市川知宏)は、大名の地を捨て信仰を選びました。
血で血を洗う戦乱の世に「信仰」で抗った男!戦国武将・高山右近の波乱の生涯とその最期実際、『北野大茶湯』の前に発令された「バテレン追放令」でいろいろと失った人がいたのは事実のようです。そのためドラマのような刃傷沙汰にはならずとも、「恨みを抱く者」がいたことはあったかもしれません。
キリシタン大名・高山右近。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」)
北野天満宮に現代も伝わる茶会のなごり北野天満宮では、現代でも北野大茶湯の名残を見ることができます。
また毎年12月には『献茶祭』が。
豊臣秀吉公が、天正15年(1587)10月1日に催した「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」に由来する430年余りの歴史をもつ祭典。
京都の4家元2宗匠(藪内家・表千家・裏千家・武者小路千家・堀内家・久田家)が6年毎に輪番で奉仕し、御神前に供える献茶式を行った後、境内外各所に茶席を設け、ご参拝の方もお茶を楽しむことができます。(「北野天満宮」12月1日献茶祭)
以下の場所で当時を偲ぶこともできます。
⚫︎太閤井戸:秀吉が茶会のときにこの井戸で水を組んだと伝わる。
⚫︎御土居:天正19年(1591)に秀吉が京を囲んで築いた土塁。北野天満宮の境内に一部が残る。
⚫︎本殿:慶長12年(1607)、秀吉の子・秀頼が造営した。
北野天満宮本殿(国宝)日本最古の八棟造(権現造)(撮影:高野えり)
北野天満宮楼門。平安時代中期の学者・慶滋保胤が菅公を讃えた「文道大祖 風月本主」の言葉が。(撮影:高野えり)
太閤井戸 豊臣秀吉公が天正15年(1587)に催した「北野大茶湯」で、茶の湯用の水を汲んだと伝わる井戸。(撮影:高野えり)
最後に皆が身分や貧富など関係なく垣根を取り去り、一つの場所で「茶の湯」を楽しむ。
まるで、ドラマの中で信長が秀吉に伝えた「この空のように、境目のない世の中を作りたい」を実現したようにも感じます。
けれど、そんななごやかな空気だけで終わらない豊臣政権。
天下人になりたくて、「お天道さま」に近づけば近づくほど、我が身に受ける光は強くなります。
そして、その分、自身の後ろにできる影は色濃くなっていくもの。
そんな兄弟の今後はどう描かれていくのでしょうか。
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・北野天満宮公式HP
・北野大茶湯輯成
・秀吉の智略「北野大茶湯」大検証竹内 順一・田中 秀隆・中村 修也・矢野 環
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