【ブラッサム】木村正吾のモデルは誰?札幌で始まる本格創作…平穏の先に待つ“情熱的な恋” (6/7ページ)
大正7年(1918)の『開道五十年記念北海道博覧会』をきっかけに街並みが近代化し、イルミネーションや店頭装飾など都市的な賑わいも見られるようになっていったと伝わります。
北海道へ渡ったことでさらに本格的に創作活動が札幌での千代は、妻としてかいがいしく家事をこなしたり、女学校で身につけた裁縫の技術を活かして仕立物に精を出していました。(おいでませ山口へ 作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観)
宇野千代は、札幌時代、「仕立て(仕立物)の請負」などの内職や、頼母子講(たのもしこう)※に参加して生活のために貯蓄に励んでいました。
※皆でお金を出し合い、まとまった金額を順番や抽選などで受け取る昔の仕組み
「伯母の足袋」が働くモチベーションになったのでしょうか。
甲斐甲斐しく働いたり家事をしたりする日々で、宇野千代は一見、東京で開きかけた「文学への道」とは縁が切れたような気がしますが、ところがそうではありません。
大正10年(1921)『時事新報』の懸賞小説で『脂粉の顔』が一等入選し賞金を手にして「文章がこんなに金になるのか」と驚き、小説を書くことにのめり込んでいくのでした。
そして、次に書いた『墓を發(あば)く』の原稿を書いたことが、再び東京で会った『中央公論』誌の編集長・瀧田樗陰(※)との縁を結びます。
※「ブラッサム」では『首都公論』編集長・黒崎大三郎(遠藤憲一)となっています。