遊女55人虐殺事件の闇・おいらん淵と黒川金山【ニッポン隠れ里奇譚】 (2/3ページ)
ある日、金山の役人たちは渓谷の、深い谷の上に蔦や藤蔓を張り巡らして、大きな宴台を設けた。やがて宴会が開かれることになり、何も疑わない五十五人の遊女が呼ばれて、やってきた。
遊女たちは宴台にあつらえられた華やかな舞台の上で華麗な舞を披露した。それは天女が演じるような、艶やかで見事な舞だったという。舞がいよいよ佳境に達したその刹那、隠れていた役人たちが宴台を支える太い蔓を切った。五十五人の遊女をのせた宴台はまっさかさまに十数m下の谷底に落下。遊女の哀しい末期の叫びが、峻険な谷にこだました。
岸壁や大岩に叩き付けられ、多くの遊女が脳天を割って即死した。なんとか即死を免れた遊女も、次々と多摩川の激流に呑み込まれ、溺死したという。川は血に染まり、下流には大勢の遊女の死体が流れ着いたそうだ。こうして、五十五人の遊女の亡骸を呑み込んだその川の淵はいつの頃からか、"おいらん淵"と称されるようになったという。
おいらん淵に向かうには、JR青梅線の終点、奥多摩駅から丹波山村方面へ向かうバスに一時間ほど乗って、終点の停留所で降りる。その時点で、すでに周囲はうっそうとした山林に覆われているのだが、目指すおいらん淵はその停留所からさらに2時間余り山道をのぼらなければならない。
やがて、慰霊塔や看板の立つ目的の"おいらん淵"に到着する。しかし、そうやってたどりついたおいらん淵は、本当のおいらん淵ではないという。由緒書きの看板に、ちゃんと記してあった。
そのおいらん淵は、地元の人には『銚子滝』といわれている、別の場所なのだ。伝説で伝えられる本当の"おいらん淵"はさらに1キロほど上流の藤尾橋の近くにある『ゴリョウ滝』のことではないかというのだ。どうしておいらん淵は二つあるのだろうか。いったい、伝説の真偽はいかなるものなのだろうか?
僕は地元の教育委員会を訪ねたり、史書や史料を調べてみた。その結果、驚くべき伝説の真偽が判明したのだ。結論から言うと、明治時代になるまで、おいらん淵の名称や伝承は地元に伝えられてはいなかった。
文明開化が進みつつあった明治の半ば頃のこと、欧米の情報が次々と入ってきた影響もあって、怪談話みたいなものが流行した。