両国大会チケット完売...インディ系プロレスDDTと「ももクロ」の共通項 (2/4ページ)
その旗揚げメンバーのひとりで、学生イベンターとして知る人ぞ知る存在だった高木三四郎(現DDT代表) は、そんなどん底の状況から自分にあるノウハウや人脈を駆使して、他の団体では絶対にやらないような方法論で団体を生きながらえさせた。
例えば、プロレス会場に渋谷のクラブを使ってみたり、そこに個人の人脈でギャルや女子高生を集め、それをウリに週刊誌に記事を掲載してもらったりと、「それしかなかったから」という理由で独自過ぎる手法を次々と打ち出したのだ。この初期段階の時点で「普通と何かが違うプロレス団体」というカラーが完成していたと言える。
だが、その後しばらくの間はDDTは単なるどインディ団体のひとつとして、辛うじてプロレス業界の底辺にぶら下がっているという程度だった。下北沢の北沢タウンホールなど、小学校の体育館よりも狭いような会場を埋めるのがやっとで、出場する選手も名前も聞いた事ないような無名のインディレスラーばかり。
しかし、これまた「他に手段がないから」といった事情でやっていた、遠慮なく打撃を入れ合う「通称:バチバチ系ファイト」がジワジワと評判を呼び、次第に大きな会場で興行を打てるようになっていった。なんせ「ヒクソンを持ち上げた男」こと格闘家の木村浩一郎や、初代修斗ウェルター級チャンピオンが選手として、またコーチとして参加していたのだから、それも頷けよう。
そしてプロレスの聖地こと後楽園ホールで定期的に単独興行を開ける規模になった前後に、ゼロワンやみちプロなど当時のDDTとは比較にならない有名団体との交流が始まる。この時に獅子奮迅の活躍を見せたのが、2mの脚立を自在に操る身長160cmのプロレスラーMIKAMI(DDT旗揚げメンバー)だ。彼はDDTの名を売るべく、他団体のリングで2mの脚立の上から椅子の山に突っ込むといった自殺的なファイトを繰り広げた。そのインパクトが評判を呼んで、ジュニアヘビー級のオールスター興行的な大会に呼ばれるまでになり、DDTに "普通のプロレスファン" の目が集まる事になる。個人的にTIFでのももクロ伝説に相当するのが、このMIKAMIの文字通り命がけの出稼ぎだったように思う。