「想い続けるということ。」〜あの日から4年。今、ストーリーにできること。

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「想い続けるということ。」〜あの日から4年。今、ストーリーにできること。

2011年3月11日。 日本を襲った未曾有の大震災から4年の歳月が経ちます。 あの日から、東北は「被災地」になりました。沿岸を津波が襲い、本当にたくさんの人の命が失われました。 テレビから流れてくる東北の衝撃的すぎる映像。これは本当に日本で起こっていることなんだろうか。当時都内にいた私は、まるでドラマを見ているかのような印象を持ったことを覚えています。 あの日から4年。時間とともに、人々の記憶は少しずつ風化していきます。震災は過去のものとなり、震災前と同じように日々が巡る。 そんな中でも、STORYS.JPには、3.11に関するたくさんの「伝えたい想い」がストーリーとして投稿されています。東京で感じた震災。地元が被災地となった人の記憶。東北を訪れた人の想い。 消してはいけない。日本に生きる者として、残さなければいけない記憶、想いがここにある。「私達にできること」は、このストーリーを残し、伝えることだと強く感じました。 ここでご紹介するのは、2年前に投稿された、震災当時海外に留学中だったある女性が綴ったストーリー。世界中を駆け巡るニュースを見て、彼女は母国に何を想ったのでしょうか。 震災から4年。”あの日”に、想いを馳せましょう。

3.11/当時海外にいて思ったこと。



2年前、2011年の3月11日、私はスペインで高校生をしていました。


あの日は朝から色々な先生が「日本で地震があったんだって?」と私に声をかけてきてくれました。
しかし、私は当時その地震がそこまで大規模なものだなんて夢にも思っておらずに、日本で地震が起こる事なんて日常茶飯事なのに。そんなことを思いながら、大丈夫大丈夫と適当に先生方に答えていました。
それほど、あの災害は私にとっては予想外なものでした。

あの日のことは、今でもよく覚えています。
5時間目の技術の時間に、机についていると先生が私に向かって手招きをしました。
なんだろうと思いながら呼ばれるままに向かうと、先生がPCを指差します。
Youtubeか何かを開いていたようですが、一面真っ赤に染まったそれが、一体なんの動画かすぐには分かりませんでした。
「大変なことになっているね」と先生が言い、初めて私は気がつきました。
動画には、日本語のテロップがついていました。そして見えるM8.0という文字。
画面の赤は、地震によって起きた火災の炎の色でした。
これは今日起こった地震のことなのだと分かると、頭から血の気が引いていったような気がします。
先生も思うことがあったのでしょう、PCを貸してくれたので、私はそれで震源地や現在の状況をなんとか探しました。もちろん日本語など打てないので、ローマ字を使ってです。
慣れない操作と出てこない情報にイライラしながらも、なんとか震源地が福島、そして現在の状況は私が想像していたより何倍もひどいものという事が分かりました。
その日の授業は、一つも頭に入りませんでした。
私の実家は福岡なので、少なくとも家族は大丈夫だろうと思いながらも不安で不安で、授業が終わってから真っ先に携帯で家に電話をしてみました。
しかし当たり前ですが混線していて通じるはずもなく、不安でふらふらしながら家に帰ったのを覚えています。
結局家族は皆無事だったのですが、それを確認するまでは本当に生きた心地ではありませんでした。

数週間も経つと、被災地や物資不足となった首都以外の場所は大分落ち着いてきたように思われますが、一つ悲しい出来事がありました。
この頃からネットを通じて日本に住んでいる人たちと話していると、よく「海外にいて良かったね」言われるようになりました。
上記の言葉だけでも個人的にもやっとしていたのですが、中には「日本は放射能がヤバいからこのままそっちにいたほうがいいよ」とか「海外逃亡できて羨ましい」とまで言う人もいました。
この言葉らには、本当に涙が出るほどの怒りが沸きました。
私はその時までは想像もしたことも無かったのですが、海外にいる以上、日本の情報というものは自分に届くまでにかなりの時間がかかります。
情報、例えば地震の規模だったり震源地だったりとそういった事もなのですが、我々海外に住む人たちは「地震が起こった」という日本にいればまず全国の人が数分で知るであろうことすら、数時間経つまで気づくことができないのです。
2年前、地震が起こったのが日本の午後3時前、スペイン時間に直すと8時ごろ。私がちょうど起き出す頃です。
ベッドから出た私は、その時日本で多くの人が地震の恐怖に耐えていただなんて欠片も考えずに朝ご飯を食べていました。
色々なところが火災に見舞われている中で、私は普通に学校に登校し、授業を受けていました。
たくさんの人が苦しみながら水に飲まれていた間、私は何も知らずにノートに落書きをしていました。
地震が起こったということが分かった時なによりも怖かったこと、それは「日本でとんでもないことが起きていた時に、知らなかったとはいえ自分はへらへらと笑っていた」ということです。
今回の地震の件は、自分の家族には何事もなかったので不謹慎ながらも良かったと言えますが、これから先、このようなことはまだまだ起こりうります。
極端な話、例えば日本が沈没したとして、その瞬間私はそれに気がつくことも出来ずに友達と笑いあっている可能性だって0ではないのです。
その事実が私にはどうしようも無く、怖くて恐ろしく感じました。
確かにいざ被災された方や日本にいた方の恐怖は私のものとは比べ物にならないかもしれません。
しかし私にとっては「情報が入ってこない」というのが本当に怖く、夜ベッドの中で上記のようなことを想像し不安でなかなか寝付けない日もありました。
なので現場にいなかったからと言って、あたかも私がラッキーと手放しに喜んでいるとでも思われているのかなあと思うと、とても悲しくなりました。

放射能がどうだ、地震がどうだと2年経った今でも色々と騒がれていることは多々ありますが、17日後に迫った帰国日が私にとっては楽しみでしょうがありません。
間違いなく日本は私の母国であり、故郷です。
災害後、ネットで色々な心温まる災害当時のエピソードを読み、日本人の団結力に深く感動しました。
そんな強靭な故郷を心から誇りに思うと共に、今でも震災の爪跡が残る日本に2年経った今だからこそ貢献できる形があるのではないかと思っています。
以上、私が2011年3月11日に起こった大震災を通し思ったこと、感じたことでした。

蛇足ではあるのですが、ちょうどその日から1年後の2012年3月11日、当時通っていたスペイン語教室から帰ろうとしていた時に、他のレベルのクラスにいるポルトガル人の子と知り合いました。
その子が私に「知っている日本語の歌が一つある」と言い、歌ってくれた曲、それは坂本九の「上を向いて歩こう」でした。
海外でもかなり有名なこの曲を彼女が知っているのは、そこまで不思議なことでは無いかも知れません。

それでも夕焼けの中で聴く彼女の歌声はどうにも私の胸を揺さぶり、世界は繋がっているのだなあと涙が零れてしまいました。



「東北のために、日本のために自分になにができるのか」
「何をやっても自己満足にしかならないのではないか」
そんなもどかしさを感じる人も多いと思います。
そこに正解なんてないのかもしれません。実際に津波の被害を被った人にしか分からないつらさもあれば、家族を失った人にしか分からない苦しみもあります。

しかし、考えること、想うことを辞めてはいけないのだと思います。失われた命、壊された町のことを忘れてはいけないのだと思います。

STORYS.JPでは、3.11のストーリーを集めた特設ページを開設しています。
少しでも、この出来事が忘れられないように。たくさんの記憶と想いが残るように。私達にできることを模索していきます。

3月11日。震災から4年です。

STORYS.JP 3.11のストーリー


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