【歴史】子どもを53人も作った徳川11代将軍・徳川家斉が凄い! いろんな意味で凄い!! (2/3ページ)

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権力者が変わったくらいで全ての人が暮らしやすくなるのなら、戦争なんぞとっくの昔になくなっているでしょうに。

そんな経緯で定信は数年で失脚するのですが、家斉はその理由が飲み込めていなかった節があります。というのも、新しい老中首座に定信の補佐役だった松平信明を任じているのです。やり方そのものが悪かったのに、担当者を変えれば何とかなるだろうと思っていたんでしょうね。何だか現代でもありそうな話です。

というわけで定信の方針はその後しばらく続き、幕府の悪評と財政悪化が解決することはありませんでした。あーあ。

・息子26人+娘27人=53人
さらに、信明や同年代の老中達が隠居し始めると、今度は「ワイロ万歳!」な水野忠成という人物を老中首座にしてしまいます。この時期のワイロについては家斉お墨付きだったというのですから手に負えません。うるさいのがいなくなった家斉自身も贅沢をしはじめ、それでいて異国船打払令(外国の船は皆ぶっ飛ばせ!というメチャクチャな法律)のせいで余計に財政が圧迫され、もはやどうにもならない状態。

その上家斉自身は正室はもちろん、名前が特定できるだけでも16人もの側室を抱え、息子26人+娘27人=53人もの子供をもうけるという大散財をしています。25人は早世していますが、それでも残り28人ですから大所帯には変わりません。

いくら乳幼児の死亡率が高い時代とはいえ、これでは財政を立て直すヒマがないのも当たり前です。実家である一橋家が「ウチの血筋で本家を乗っ取ってやるぜゲッヘッヘ。せいぜい頑張れよ(意味深)」(※イメージです)という意向だったからともいわれていますが、それにしたって命中率高すぎやろ。酒豪の割に長生きだったり、風邪すらほとんどひいたことがなかったようなので、元々かなり頑丈な人だったのは確かですが。

・将軍を譲った後も実権を握り続ける老害っぷり
ついでにいえば、この間貨幣の改鋳によりずっとインフレ状態が続き、さらに天保の大飢饉が起きたため、民衆の不満も右肩上がりというかリミットブレイクものでした。よくこれで江戸城に放火とかされなかったものです。

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