河原純一「浪人時代で野球の見方が変わったんです」プロ野球・不死鳥プレーヤー列伝
94年のドラフト会議で、巨人を逆指名し、鳴り物入りで入団したのが河原純一氏(43)。細身の体から繰り出す快速球を武器に、1年目から8勝を挙げる。一躍、将来のエース候補として期待されるようになったが、故障と闘う日々が始まる。
「肘と肩を手術したんですが、肘は問題なくても、肩が元のように戻ることはありませんでしたね」
数年間にわたり、思い描く投球ができず、苦しんでいたところに転機が訪れる。「02年に抑えに回ったんですが、これが自分の体に合っていました。先発だと、イニング間で肩が固まってしまっていたんです」
この年、28セーブを記録し、日本一にも貢献。日本シリーズでは胴上げ投手にもなった。しかし、翌年以降は再び成績が下降。05年にトレードで西武に移籍するが、復活とはいかなかった。
「先発に戻ったんですが、抑えの感覚から戻れなかった。力の抜き方を忘れてしまったんです。3年目に右膝靱帯を損傷して、そのオフに自由契約になりました」
トライアウトを受けるも獲得球団は現れず、河原氏は浪人生活を送ることになる。「膝が治らない以上、すぐにまたダメになると思っていたし、焦りもなかったですね。やると決めたからには、やるしかなかったですから……」
右足のケガが気にならなくなった頃、母校の駒澤大学で黙々とトレーニングをしていた河原氏のもとに、当時、中日の投手コーチで大学の先輩だった森繁和氏から連絡が入る。「中日の入団テストを受けてみないかといわれて。大学の監督が話をしてくれたみたいでした」
投球練習で球はいかなかったが、思った以上に体は動いた。結果は合格。プロ野球界復帰を果たす。09年5月に一軍に昇格すると、中継ぎとして好投を続ける。以前のような速球は投げられない中で、投球スタイルも変化した。
「僕は中継ぎだったので、後ろに浅尾(拓也)君や、岩瀬(仁紀)君がいました。彼らに、どうやってリードした状態でつなぐかを意識していました。1年間、浪人しているときに、客観的に野球を見ていたんです。ベンチが何を望んでいるのか。そういうことを考えてマウンドに上がるようになりました」
緊迫した場面、ベンチが望むこととは何か。「ベンチからしたら誰が抑えてもいい。僕が全部の打者を抑える必要はないんです。当時、中継ぎにもう一人、小林(正人)という左投手がいて、2人セットで0にすればよかったんです。たとえば僕が四球を出しても、次の阿部(慎之助)を小林が抑えればいい。抑えてやろうと思うと、どうしても狭くなって、ボール球が投げられなくなる」
この年、防御率1.85、15ホールドと見事な復活を遂げた。河原氏が「あの浪人時代は遠回りではなかったと思います」と振り返るように、数々の経験が好結果に結びついたのだ。11年に中日を退団、12年に独立リーグの愛媛マンダリンパイレーツに入団し、昨年、現役を引退した。現在は、愛媛の広告会社に入社し、野球事業に尽力している。
「小中学生の“投力向上”を目指しています。最近は、愛媛の高校も甲子園で勝てていませんから。若い子の力になって、成長した姿を見ることができたら、うれしいですね」
様々な経験を積んだ河原氏の言葉は、きっと若者に響くことだろう。