NO1ヒットメーカー売野雅勇が明かす“80年代アイドル”の戦乱(1)河合奈保子が初めて見せた涙 (2/2ページ)
新たな気持ちで臨むという意味を込め、タイトルは「デビュー~Fly Me To Love」(85年)と決まっていた。
「21作目にして初めて1位をとれてホッとしました。彼女とは長く組んでいて、イヤな思いをさせられることが一度もなかった」
さて売野氏は、広告代理店のコピーライターや、ファッション誌の編集長という経歴を経て、81年にシャネルズの「星くずのダンス・ホール」で作詞家デビュー。広告出身のキャッチーな言語センスは、新人のデビューに起用されることも多かった。
その一人、本田美奈子(享年38)のデビュー曲は、なんと「殺意のバカンス」(85年)というアイドルにあるまじきタイトル──。
「彼女自身の歌唱力が高いこともあって、フリフリのアイドル路線を否定していた。それに音楽出版の担当からも『インパクトのあるタイトルでいきましょう』という注文でした」
もう一つ、倉沢淳美(49)のソロデビュー曲「プロフィール」(84年)も、歌詞に倉沢の生年月日、身長、性格などが盛り込まれた斬新な詞であった。
「下敷きにしたのは、湯川れい子さんが書いた松本伊代の『センチメンタル・ジャーニー』です。あの歌では『伊代はまだ16だから』という歌詞が話題になり、それをさらに拡大した形。ただ、あれだけ自己紹介のフレーズが続くと、どうオチをつけるかに苦心して『あ~つみ』と連呼させるしかなかった」