【日本人が知らないニッポン】小田原城から見る日本戦争史の「転換点」 (2/2ページ)

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小田原城は10万単位の軍勢に包囲されてしまいますが、結果的にはそれを見事打ち破っています。

それ以降、関東甲信越の情勢は北条・武田・上杉の三すくみという様相を呈します。義元死後の今川は衰退し、駿府は武田が制圧してしまうのですが、難攻不落の小田原城を頂点にした関東平野は後北条氏の下で大いに栄えます。ここは室町幕府の権威が及ばない「独立国」だったのです。

さて、関白となった豊臣秀吉がいよいよ天下平定に乗り出すと、各国の諸大名に動揺が走ります。

秀吉は諸大名に「大坂城へ来い」と命じます。それはすなわち、降伏勧告です。もちろん「儂に降伏せよ」などと直接的に言ったりはしません。「大坂へ物見遊山でもしないか」というようなライトな表現で誘います。

しかし、それが降伏勧告だということは、誰にでも分かります。上杉や毛利はそれに従い、島津は拒んだものの兵を送られ降伏し、伊達はギリギリまで回答を保留しました。

その中で、北条は戦う道を選んだのです。

・小田原落城の張本人

我々現代人は結果を知っていますから、どうしても「北条が無茶をしてしまった」という角度から歴史を捉えがちです。

ですが、関東平野の豊かさと小田原城の堅牢さを考えれば、決して無茶ではありません。戦争の常識として、守備側よりも攻撃側のほうが物資が欠乏しやすいという点があります。遠征軍は常に補給線を設置しなければなりません。太平洋戦争での日本軍は、どういうわけか補給線の維持に消極的でした。それが戦線の後退、そして敗北につながったのです。

小田原城包囲など長続きするはずがない。北条軍にはそうした確信がありました。

ところが、秀吉は恐るべき物量を小田原城に集中させます。総勢20万超の軍勢を維持できるだけの物量です。それはすなわち、補給を管理する役割の人間が豊臣側にいたということになります。

それまではどんぶり勘定が当たり前だった戦争会計ですが、小田原城攻めの際にそれを取り仕切っていたのは石田三成という武将でした。どんぶり勘定では、数十万の軍勢の下支えはできません。米の一俵にまで厳格な三成の計算が豊臣政権を支え、同時に後北条氏の政治スタイルを時代遅れのものにしてしまいました。

こうした意味でも、小田原城は日本の戦争史に大きく関わっているのです。

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