【新東方見聞録】徳川家康とベトナムの知られざる「蜜月関係」(ベトナム・ホイアン) (2/2ページ)
来遠橋が日本人の手によるもの、というのはまだ決定的証拠が見つかっていません。ですが、決してあり得ない話でもないと思います。というのも、戦国時代は建築技術を大幅に躍進させた時代区分でもあり、そのエンジニアが国外に流出していてもまったくおかしくはありません。
また、家康がベトナムとの朱印貿易に熱心だった理由は、香木を手に入れることだったとも言われています。蘭奢待などが有名ですが、嗜好品としての香木は茶道具と同じく大金をもって取り扱われるものでした。そして香木の主な産地は、ベトナムです。
家康の真の狙いはこれだったのでは、とも考えられます。
・家康死後の「忘却」
ですが家康死後、江戸幕府は徐々に対外交易に興味を失います。
1630年代になると締め付けが一層厳しくなり、国外に出た日本人の帰国が禁止されてしまいます。ここから東南アジア各地の日本人街は衰退へ向かっていくのです。
そして日本人の脳裏からも、東照神君がホイアンとの貿易に情熱を注いでいたという事実が失われていきます。
あの時、我々の先祖が異国の地に残したものは何だったのでしょうか?
そしてそれが、後世にどのような影響をもたらしのたのでしょうか?
来遠橋は、今も在りし日のホイアンを見つめ続けています。
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