江戸時代グルメ雑学(9) 焼き芋の歴史:江戸の焼き芋屋さんはまるでファストフード店 (2/3ページ)

Japaaan

『十三里』は、『八里半』の語源になった“九里(くり)”に“四里(より)”を足したもの、つまり『栗より美味い』と言う表現でもあるのと同時に、江戸から十三里離れた川越のことも意味しています。川越は今もサツマイモの名産地ですが、江戸時代でも品質の高さは人気であり、洒落っ気のある江戸庶民からこのように称えられていました。

その焼き芋屋は『安い、旨い、お手軽』で江戸っ子の需要を満たした、食べ物屋さんの三冠王と言ってもおかしくないほどに重宝されます。各町に設けられた木戸で治安の維持や火の番を受け持つ番屋と呼ばれる施設の管理人は、副業として雑貨などと共に焼き芋を売っていました。冬場は、きっと町内の人で賑わったことでしょう。

老若男女、身分も超えて江戸の焼き芋屋さんは大繁盛!

当時の江戸を書き記した『江戸繁盛記』(寺門静軒)によると、焼き芋は煨薯(わいしょ)と呼ばれ、朝の卯の刻から夜の亥の刻(午前六時から午後十時)までサツマイモを焼くお店があったとあります。まるで今のファストフード店かコンビニのようですね。

安価で味も栄養価もバツグンな焼き芋は、十文(200~250円)分も買えば書生が空腹を癒す朝食になり得るもので、四文(100円ほど)ならば幼児を泣き止ませるなど、知識人から庶民に至るまで広く愛されました。

一方で商家や武士など社会的地位の高い人達の中にも焼き芋ファンはいたらしく、『江戸繁盛記』には、
「お嬢様は女の召使いに“おさつを買ってきて”と小声で頼む」
「ご主人が男の奉公人を行かせる時は、“小さくて数が多いのよりは、数が少なくても大きいのが良い”と言付ける」
と言った意味の事が記されています。きっと、『旨いと評判だが、場末の店にワシらが並ぶのは、ちと気恥ずかしいものじゃ』とでも思ったのでしょう。そうしたエリート層からも好まれていたのですから、その人気たるや現代の比では無かったかもしれませんね。

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