天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 竹下登・直子夫人(下) (2/2ページ)

週刊実話

それを、こんこんと直子さんに語った。直子さんも、心の支えになって竹下の大望を成就させてやりたいということで保母への夢を捨て、竹下に一生を託す決心をした」
 ここでは竹下の無類の「意志の固さ」の一方で、直子のそれも浮き彫りにされるのである。

 かくして直子と結ばれた竹下は、大学卒業とともに地元に戻り、英語の教師として中学の教壇に立つ一方、青年団活動にも力を入れて政治家へのチャンスをうかがったのだった。
 ついに、26歳でそのチャンスがやってきた。島根県会議員選挙に出馬、初当選を飾ることができた。県議2期を経て、やがて34歳で念願の衆院選初当選を果たすのである。この初当選で、直子が竹下と出会って、生涯初めての感涙にむせたことは前回に記した。

 以来、竹下を支え続けた直子が、次のような感慨を漏らしたという、竹下後援会の古老の話が残っている。
 「竹下先生の首相当時、直子夫人に伺ったら、これまでの人生でつらかったことが二つあったと言っていた。
 一つは、初めて県議選に出たときで、夫人は竹下に地盤がないためにメガホンを持って自転車に乗り、ほこりまみれになりながら応援に死力を尽くした。直子夫人の父親は銀行マン、“お嬢さん”にしておだやかな生活環境に育っただけに、これは並大抵のことではなかったと思われる。
 二つは、竹下先生が、『創政会』をつくり、以後、田中角栄先生との間で何かとギクシャクが伝えられたときだったそうだ。夫唱婦随、『決して怒ってはいけない』の思いの中で、これらが交錯することが多々あったのだと思われる」

 「長期政権」が大勢の中で、竹下政権は日米関係の良好さ、悲願でもあった「消費税」導入を果たしただけで政権は意に反して「短命」に終わった。
 退陣後の竹下は、一時は沈黙していたが、一方で「しぶとさ」が身上、政財官界に張りめぐらされた人脈の広さ、厚さをバックに、その後も影響力を発揮し続けた。以後の宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一政権を演出、そして当時、社会党の村山富市を首班とする「自・さ・社」3党連立政権のシナリオをも書いてみせたのだった。

 「人生は回り道」「(生きるということは)おのが力と思うなよ」、竹下はそんな“名言”も残している。
 平成22年10月、すでに膵臓がんで波乱の人生を閉じていた竹下のもとへ、享年84、直子もかけつけた。
=敬称略=
(次号は宇野宗佑・千代夫人)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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