介護疲れと生活苦で母を殺害。温情判決が下され、再起誓うも8年後に自殺。
厚生労働省の「平成27年度高齢者虐待対応状況調査結果概要」によると、平成27年度(2015年)中に発生し、市町村が把握している事例で、介護をしている親族による、介護をめぐって発生した事件で、被介護者が65歳以上、かつ虐待等により死亡に至ったのは、「養護者による殺人」が7件7人、「介護等放棄(ネグレクト)による致死」が6件6人、「虐待(ネグレクトを除く)による致死」が5件5人、「心中」が1件1人、「その他」が1件1人で、合わせて20件20人だった。
■介護殺人の行動パターンとは?
社会福祉学者の宮元預羽(2014年)は2005年6月から2014年9月までに起こった、81件が殺人、22件が未遂・心中であった合計103件の介護殺人を報じた新聞記事から介護殺人の行動パターンを分析した。宮元によると事件は、介護保険制度における介護サービスの早朝・夜間・深夜加算の時間帯に多い。加害者は50〜80歳代の認知症、そして寝たきりなどの廃用症候群(生活不活発病)の女性要介護者を介護している50〜80歳代の男性介護者が多い。また、男性加害者は殺害の凶器や方法として紐状のものを使用したり、暴行したりすることが多いのに対し、女性加害者は紐状もの以外に、暴行・刃物・薬・毒物など、凶器や方法が多様だった。こうした結果をふまえ、宮元は、夜間から早朝の時間帯の介護サービスを充実させることによって、事件は防止できるのではないか。また、夜間から深夜の時間帯に、被害者に認知症特有の症状が現れる。それが事件と関連があることも確認できたという。
■京都認知症母殺害心中未遂事件とは?
一口に「介護殺人」と言っても、加害者である介護者・保護者の生活・経済状況、被害者である被介護者の病状が異なるため、全てをひとくくりにはできない。しかし、2006年2月1日、気温5度の底冷えの朝に、京都市伏見区の桂川の河川敷で「介護殺人」事件が起こった。認知症の母親(86歳)を、事件当時は無職だった54歳の息子・A(54歳)が殺害し、自らも後を追って、死のうとしていたものの、死に切れず、血まみれで倒れていたところを通行人に発見されたのだ。
事件の「加害者」でもあり「被害者」でもあったAは、京都市の河原町で生まれた。父親は有名な京友禅の糊置き職人だった。1950〜60年代は高級呉服がよく売れ、一家は裕福だった。そして職人気質の父親は口より先に手が出る、子どもの躾に厳しい人物だった。常々Aに、「貧乏であっても、人から後ろ指を指されることはしてはいけない」「他人に迷惑をかける生き方をしてはいけない」と言っていた。跡継ぎのAは、父親の教えを愚直に守って生きていた。Aは高校卒業後、父親の弟子となり、家業を手伝っていた。しかし呉服そのものの国内需要が減っていき、1980年代後半に、Aの家は廃業に追い込まれてしまった。その後Aは、警備員や製造工をして食いつないでいたが、父親が1995年に亡くなってから、母親の様子がおかしくなってしまった。自宅で「キツネが出る!」と騒いだり、ひとりで買い物ができなくなってしまった。そんな母親に下された医師の診断は、認知症だった。
■父を亡くした後に母が認知症を患う。そして生活はどんどん苦しくなっていった。
更にAの経済状態も逼迫していく。1998年に勤めていた職場をリストラで追われ、工場の派遣従業員になることを余儀なくされる。当時の職場の上司によると、Aは生真面目で、現場での評価も高かったという。その間、親類からいくらかお金を借りたり、所有するアパートに半額の家賃で住まわせてもらったりはしていたものの、母親の症状はひどくなっていく一方だった。2005年の春頃には、母親は夜間にほとんど眠れなくなってしまった。30分〜1時間おきに「トイレ」と言って起き上がったり、家の外に出て行こうとするのだ。その結果、Aは慢性の寝不足状態だったが、朝から仕事に出かけ、家に戻ってからは、家事一切と母親の介護を真夜中まで続けていた。7月には、Aが仕事に出かけている間、外に出て道に迷ってしまった母親が警察に保護されることが頻発したため、Aは仕事を休職することを決意した。介護保険サービスを申請したところ、母親は「要介護3」と判定され、週5回、デイサービスに通うことになった。しかしA の休職によって、それまでの月額およそ15万円の給料がなくなり、2ヶ月ごとの母親の5万円の年金に頼るだけとなった。このままでは介護サービスの自己負担分も賄えない。悩んだAは区の福祉事務所を訪れて、職場に復帰するまで生活保護を受給できないかと相談した。しかし職員から、「働けるのだから、頑張って欲しい」と諭されたため、Aは申請を断念した。その後Aは、母親担当のケアマネージャーに相談したりもしたが、状況は変わらなかった。母親の症状はますますひどくなっていく一方で、復職のめども立たない。Aは9月に派遣会社を辞め、母親をつきっきりで介護した。そして10月から3ヶ月間、失業保険をもらって生活をしのいだ。その間も、「在宅介護がしたいので、生活保護を受けられないか」と福祉事務所に相談に出向いたが、今度は失業保険の受給を理由に、断られてしまった。
■生活保護を受けることができなかったっことで事態は益々悪化していった
Aはやむなく、母親のデイサービスを週2回に減らし、介護と両立できそうな仕事を探したが、一向に見つからない。12月には失業給付が終わった。母親のデイサービスも打ち切り、カードローンを使って、当面の生活費を工面した。同時にAは、もう死ぬしかないと絶望し始めていたが、母親は「生きたい」と言う。その言葉に踏ん張って、年を越した。カードローンの限度額25万円を使い切っていたため、2006年1月下旬には、先月のデイサービスの支払い3600円を済ませた後、手持ちの金は7000円しかなかった。2月分の家賃30000円を支払うことができない…入居期限の1月31日、Aは心中を決意した。その朝、生活を切り詰めるため、食事を1日2食にしていたふたりは、パンとジュースだけの朝食をいつものように食べた。その後Aは、部屋をきれいに掃除した。「もうこの家には住むことができない。出て行って死ぬしかない」と、親類宛に遺書を書いて、6畳間のテーブルに置いた。包丁やロープをリュックサックに入れ、部屋の電気のブレーカーを落とした。
■そして、いよいよ母と心中することに。
寒空の下、あたりが暗くなるまで、Aは母親を乗せた車椅子を押しながら、Aが生まれ育った京都市中心部の街中や鴨川のほとりをグルグルとさまよい続けた。午後7時ごろ、母親が「家に戻ろうか」と言った。アパートの前に来たものの、部屋には戻れない。Aは死に場所を探す中、殺害現場となった、桂川の河川敷に行き着いた…
2月1日の朝6時、Aは母親と最後に交わした会話、
「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」
「そうか、あかんのか…A、一緒やで。お前と一緒や」
「すまんな。すまんな」
「こっちに来い…お前はわしの子や。わしがやったる」
という状況から、Aは「承諾殺人」などの罪に問われた。Aは京都地裁での裁判の中、「母の命を奪ってしまいましたが、生まれ変わるのであれば、もう1度、母の子として生まれたい」と語るなど、母親への深い愛情、自身が犯した罪を悔いていた。こうしたことから2006年7月に下された判決は、懲役2年6月、執行猶予3年の「温情判決」だった。その際、「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と述べ、判決を下した東尾龍一裁判官にAは、「母の分まで生きたい」と、自らの再起を誓っていたのである。
■再起を誓ったものの、その8年後に自殺。
しかしそれから8年後の2014年8月1日、Aは、判決後に移り住んだ滋賀県大津市の琵琶湖大橋から身を投げたのである。数百円の所持金と共に、腰につけていたウエストポーチには、小さなメモ書きが入っていた。「自分と母のへその緒を一緒に焼いて欲しい」。そして小箱の中には、へその緒が2つ入っていた。
事件前同様、コツコツ真面目に働いていたAだったが、折からの不況で2013年初めに、働いていた職場の契約が更新されず、辞めざるを得なくなっていた。休日に、職場の仲間と渓流釣りに出かけるなど、「年の割にエネルギッシュ」な印象を持たれていたAだったが、それ以来、自宅に引きこもりがちになってしまった。アパートや仕事を世話した親類は、「会社をクビになった」と伝えられたのを最後に、2014年の春頃から、Aと連絡がつかなくなってしまった。部屋に引きこもっていたAは、釣り用の毛針をつくり続けていたようである。
8月1日にAが「決行」したのは、所持金が尽き、アパートの契約が7月末で切れることから、母親の「介護殺人」の時同様、「もう行き場がない」と追い込まれてしまっていたのではないかと推察されている。
Aを見送った親族は、Aの希望通り、遺体と2つのへその緒を一緒に火葬した。そして、「今度こそ、すべてを終わらせてあげよう」と、Aの墓や仏壇はつくらず、遺骨も拾い上げなかった。更にAの部屋にあった母親の仏壇などの遺品も、ひとつ残らず処分してしまったという。
■他人事ではない介護問題
我々は彼らの「死に方」に何を考えればいいのか?「今は都市化、核家族化で、昔と違って地域の繋がりが希薄で…」と前置きしながら、戦前から昭和30年代(1950年代半ば)ぐらいまでは多く見られ、今は失われてしまった「向こう三軒両隣」という言葉が表す親密な人間関係を回顧するのか。またはNHKの人気ドラマ『おしん』(1983〜84年)のように、わがままを言わず、ひたすら「辛抱」「我慢」する生き様を賛美し、「今時の人間は我慢が足りない!自分は寝たきりの親を家族全員で支え合って、他人に頼らず、国からの『お恵み』なんか、一切もらわず、最後まで看取ったもんだ!」などと主張する人は、必ずしも「戦中派」の保守的なお年寄りばかりだとは限らない。また、テレビやスマホの画面の「向こう側」で起こった「他人事」の「介護殺人」の報道を目にしたときは、「地域の見守りが大事」「かわいそう」と言いつつも、「自分」が「あそこ」のおじいちゃん、おばあちゃんを「見守る」余裕は全くない。子育て、家事、パートタイムの仕事など、自分や家族のことで忙しい。手が回らない。そして他人に余計な口出しをして、変なことに巻き込まれてはたまらない…のが現実だ。
■「80代の親と50代の子」がますます顕在化されていく8050問題
しかし団塊の世代が2025年頃までに75歳の「後期高齢者」になることから、介護・医療費などの社会保険費の急増が懸念される「2025年問題」はもちろんのこと、身を寄せるように生きている80代の親と50代の子どもが社会から孤立してしまう「8050(はちまるごーまる)問題」はもう目の前にきている。しかも認知症や脳梗塞など、誰かからの介護を必要とし、「元の自分」に戻りにくい病にかかってしまうのは、70代以上のお年寄りだけとは限らない。たとえ働き盛りの30代、40代であっても、認知症などの脳疾患に限らず、不慮の事故に遭い、その後遺症から、体が不自由になってしまうこともある。そんなとき、被介護者となった自分や親、夫/妻をどのように「終わらせる」のか。自ら手をかけ、自分も後から追いかけるつもりが、死に切れず、一生その業を負い続けるのか。それとも再び、Aのように、自分で自分にけりをつけるのか。
■高齢化とともに介護福祉費が国の経済を圧迫していくことは明らか
現代の日本において、「中身」や「質」についての賛否両論は尽きないにせよ、日本では2000年の4月1日から施行された介護保険制度など、介護を必要とする人々にさまざまな施策が行われてきた。それと同時に我々の心の中には、依然として、弱く衰え、病によって、物忘れ、以前できていたことが全くできなくなってしまったり、徘徊、物盗られ妄想、暴言、情緒不安定、失禁…など、「頭がよかった」「立ち居振る舞いにとても厳しかった」「しっかりしていた」「きれい好きだった」親の以前を知る子どもからしたら、「信じられない」状況になった、「壊れてしまった」親に対して変わらぬ「愛情」「奉仕」の気持ちを「みんな」が持つことが、子どもの「あるべき姿」「美徳」とされ、それに「逸脱」するような愚痴・不満・弱音が一切許されない風潮が、今なお存在し続けている。「親に育ててもらった恩を思えば…」「人間は神様じゃないんだから、完璧じゃない」「昔はもっと大変だった」「他にももっと苦しんでいる人がいる。それに比べれば…」などといった、暗黙のうちに「忍従」を強いる「空気」が払拭されること。そして、医学/薬学の発達によって、介護者を経済的・精神的・肉体的に追い詰めてしまう、被介護者の脳疾患や全身の麻痺などが完治することがない限り、「介護殺人」がこの世からなくなってしまうことはないだろう。全てを「無」にしたAの死は、我々に、「キレイゴト」の同情心を心から持ちつつも、「壊れてしまった」赤の他人が自分のそばに近寄ってこられたら、「とんでもない!」と拒否し、遠巻きに眺めてしまう我々の「醜さ」を暴き出す事件でもあったとも言える。
■京都認知症母殺害心中未遂事件が遺したこと
とはいえ、遺品、遺骨、位牌、墓といった、人が生きた痕跡とされるものを一切残さなかったAだが、Aは今もなお、この世に生きている。「温情判決」後、この事件をベースとした漫画やドラマ、演劇がつくられたのだ。例えば昭和の人気バラエティ番組、『オレたちひょうきん族』(1981〜89年)の、「懺悔の神様」役で親しまれていたタレント、ブッチー武者は自ら立ち上げた劇団・ZANGEでAの「介護殺人」をベースにした舞台を2014年9月から今日まで、演じ続けている。ブッチーは「ぼく自身、身近な人が認知症になるまでは人ごとでした。しかし、本当は地域のみんなが互いに協力しあっていける社会づくりが必要な問題です。だからこそ、この舞台を若い人に見てもらいたいです」と語っていた。事件を風化させたくないというブッチーの思いは、芝居を通して、Aや母親を含む、介護の苦労のただ中にいる多くの人々のことを「他人ごと」と受け止めてきた観客を刮目させる力を有している。それこそまさに、この世に「形」として生きた痕跡を残さなかったAが、永遠に生き続けていることを表している。