紙芝居屋の意外な歴史【2】ピンチをチャンスに変えた結果、紙芝居屋のおっちゃん誕生! (2/4ページ)

Japaaan

まず、テキヤの縄張りでは商売しないことになり、路地・空き地・公園などが紙芝居屋の居場所となりました。
そして見物料ではなく、飴を売ってその売り上げを利益とするシステムをとります。路地や公園ではテントを張れないので、興行として成立せず見物料をとることはできないからだといわれています。

飴売りになった紙芝居屋に、再びピンチが

では、なぜ飴が選ばれたのか。いろいろな証言があるものの、明確な理由はわからないのが正直なところです。しかし「飴売り」をビジネスモデルにした可能性が高いことは推察できます。江戸時代から明治時代にかけて全国に広まった飴売りは、当時の日本人にとってなじみ深い存在だったと考えられるのです。
また、お得意様である子どもの気を引けるという算段もあったかもしれません。

こうして飴と結びつき、街頭へ飛び出した紙芝居屋ですが、すぐ壁にぶつかります。なんと警察に目を付けられたのです。
「紙芝居の内容が低俗で、子どもにとって有害だ」などの理由で、取り締まられるようになったのです。実際、紙芝居を演じただけで警察に捕まった紙芝居屋もいました。

これでは商売あがったり。そこで紙芝居屋たちは知恵を絞り、新しいスタイルを生み出しました。紙人形はやめて、人物と背景を書いた一枚絵を数枚用意し、それをめくりながら語るというものです。警察に捕まりそうになったら、「いえいえ、紙芝居じゃありませんよ。人形じゃないでしょ」と言い逃れることができます。

そうしてやり過ごしているうちに、一枚絵の紙芝居が子どもに定着していきました。そして「黄金バット」で人気に火がつき、次々作品が作り出されるようになります。やがて、東京で誕生した紙芝居は日本全国へと広まっていきました。
そして飴売りスタイルの商売はそのままに、時に「低俗」のレッテルを貼られながらも、子どもの娯楽の王様となっていったのです。

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