【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第10話
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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第9話 ■文政七年 夏と、秋(2)それからというもの、佐吉は必ず毎月几帳面なほどきっちり十五日に訪れた。
そして四度目になる七月十五日、初めてみつは自分の持つ座敷に男を通した。
部屋の中央にはこれ見よがしに緋蒲団と滝紋をあしらった豪奢な掻巻が敷かれている。佐吉の視界には、嫌というほどその派手な緋色が映り込んでいるはずであるが、男はその事には少しも触れずに、
「あ、」
部屋の隅を指さして声をあげた。
目をやれば猫が隣のみつの部屋の障子の隙間からなにやら咥えてずるずると座敷に引きずり込んでいるではないか。
目を凝らすと、正月に国芳に貰った九紋龍史進の絵柄の凧であった。隣の部屋に置きっぱなしにしていたのを猫が見つけて悪戯(いたずら)したらしい。
「ぶち、駄目!」
みつは慌ててぱっと取り上げ、柳行李の中に隠した。
佐吉が驚いた様子で、
「花魁、あの凧は・・・・・・」
その言葉に、みつは表情を固くした。
「ただの凧でありんす」
「ただの凧か。仕舞ってなかったって事は、絵が気に入ってんのかい?」
「いんや、ちっとも」
みつはすげなく答えた。
たんぽぽをくれたあの春の日から、国芳とは絶えて会っていない。
二人はもう、終わったのだ。
「ふうん」
佐吉が鼻の先でみつを見た。
「これでも俺ア絵が好きでね。絵描きの兄さんを一匹、飼ってンのよ」
「飼うと言いなんすか」
「そう。花魁がぶちを飼ってんのと同んなじ。兄さんを家の中に飼いこんで、飯も食わせ、服も俺のをあげるのさ」
「まあ」
情けない、とみつは言った。まさかその情けない絵師が国芳の事だとは、露ほども思っていない。
「兄さんの絵は他とは違げえ。誰も気づかねえ、不思議な魅力がある。今は誰にも知られなくとも、いつか兄さんの絵を皆が知るようになる。そんな日が来る気がするのさ」
「来なんすか」
「うん。必ず来らア。・・・・・・」
しばし、無言の時が流れた。
未だに手も握ろうともせず、むしろそういう男女の事を避けるかのように他愛のない話ばかりする佐吉が、みつには不思議だった。花魁の持ち部屋に通したという事がどういう事か、まさか佐吉に分からないという事はあるまい。
一体何を考えているのか。
いっその事、何も考えず他の男たちと同様に早く緋蒲団の中に引き込んでくれた方がどれほどか呼吸が楽だ。
「佐吉はん」
みつが先に焦れて、佐吉の袖を強く引いた。
心の奥には、佐吉と違う面影が揺れている。
最後に会った初春の日からずっと離れずに、みつの中に揺れている。
あの、あくのなさすぎる無邪気な笑顔だ。・・・・・・
見つめるたびにきらきらと強い目をまっすぐ差し向けてきたあの男の笑顔を、一刻も早く振り払ってしまいたかった。
どさり。
二人の身体が、分厚い綿の詰まったやわらかな掻巻の上に転げた。
「痛てえ。花魁、何すんでえ・・・・・・」
身を起こそうとした佐吉にかぶさるようにして、みつはそのくちびるを塞いだ。
しばらくくちびるを合わせたまま、みつは呼吸(いき)を詰めて男が応えるのを待った。
しかしいくら待っても佐吉は舌の先すら差し込んで来ない。
みつは失望して男を突き放し、
「あちきに触れぬ佐吉はんが憎うござんす」
いじらしい薄墨の目で佐吉を睨みつけた。
佐吉は一瞬何か迷ったような表情をしたが、すぐにやわらかく微笑して、みつの白い頬に指を触れた。
「ごめん」
子どもが悪さをごまかす時のようなあいまいな微笑を浮かべて、佐吉が言った。
佐吉の頭の中には二人の姿がある。
一人は国芳だ。
国芳が惚れている女に触れる事などは、己の道義に誓って出来ない。
(それに、・・・・・・)
もう一つの事の方が、佐吉にとっては切実だった。
佐吉は呼吸を置いて、真実を言った。
「あんた、似てるんだ。昔死んじまった姉さんに」。
二人の間に流れる時が、止まった。
みつは、目の前の青年が美貌も財力も人脈も何もかもを手に入れながら、本当はたった一人の姉を亡くした少年の頃の悲愴を抱えたまま、今もまだ前に進めずに立ち止まっている事を知った。
幼少期に水滸伝の絵本を読み聞かせてくれたのも実はその姉だったのだと朗らかに笑って教えてくれた佐吉に、他の男の穴埋めをしろと詰(なじ)る事は、みつには出来なかった。
「なら、あちきを姉様と思いなんし」
佐吉は声に導かれるように顔を上げた。
その肩をみつは優しく抱き寄せた。
抱き寄せられると佐吉の広い肩が急に小さくなったように思われた。
佐吉は途方に暮れた迷子のように身を固くして俯き、自分の背中を撫ぜられる音をただ聞いていた。
随分長い間そうした後に、
「花魁」、
と佐吉が弱々しい、どこか甘えた声で呟いた。そしてみつの肩口に額を乗せ、
「十五夜の月見は、一緒に過ごしても良いかえ」
と言った。
確かに来月の十五日は、十五夜であった。
吉原女郎には一年で最も大切な紋日(もんぴ)の一つであり、佐吉のような付き合いの浅い客を月見に呼ぶ事は珍しい。しかし、ぽそりと言った佐吉のその言葉を、断る理由はどこにもなかった。
「ええ」
みつの短い一言で、十五夜の月見の話は決まった。
その日はそのまま、二人でうずくまるようにして掻巻の中で眠った。
白々と夜が明け始め、目を覚ました佐吉は房楊枝と手水盥を使った後にふと言った。
「十五夜は、面白い人を連れて来るよ」
「それは、どういうお方?」
青年の涼やかな目が、みつを覗き込んだ。昨夜の儚げな笑顔が嘘のように、もうすっかりいつもの調子を取り戻している。
「山谷堀(さんやぼり)の東っ側に近江屋っていう茶屋があるの、花魁は知ってる?」
「知りんせん。廓内(なか)の茶屋しか」
「そりゃそうか。俺アそこの旦那と仲良くてね。なかなか風流な人だぜ。次はその旦那を連れて来る」
分かりいした、とみつは頷いた。
作中イラスト:筆者
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