頭髪を晒すのは無礼者!平安時代、冠や烏帽子を脱ぐのは下着姿になるよりも恥ずかしいことだった

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頭髪を晒すのは無礼者!平安時代、冠や烏帽子を脱ぐのは下着姿になるよりも恥ずかしいことだった

参内では冠を、私服では烏帽子を着用するのが決まり

平安時代、貴族のファッションには決まりがありました。TPOによっても違いはありますが、一般的に宮中への参内には束帯(もっとも正式な服装)や衣冠(一般的な参内時の服装)が決まりで、この場合は冠を着用します。

仕事着以外のカジュアルな私服には、普段着の狩衣、上流貴族が自宅でくつろぐ際に着用する直衣などがありますが、このときは冠ではなく烏帽子を着用します。

伴大納言絵詞(12世紀の絵巻)

貴族階級でなくても、武士や一般庶民も頭髪を晒して出歩くことはなく、きちんと烏帽子などを着用していたのです。

男性が頭髪を晒すことは、相手に対して無礼なことであり、冠を脱ぐことは下着姿を晒す、さらには下着を脱ぐことよりも恥ずかしいことであったといわれています。

冠も烏帽子も着用していないのは僧侶くらいのもの。僧侶は俗世から離れた存在であるため、こうした常識は適用されない立場にあります。

他人の冠を落として左遷された!?

他人の冠を落としたために左遷されたと伝わる人物がいます。それは、平安中期の貴族であり、歌人としても知られる藤原実方です。

菊池容斎『前賢故実』

藤原実方はある日、藤原行成と口論になり、一条天皇の目の前で行成の冠を叩き落した。しかし行成は怒りもせず冷静に対応し、それに興ざめした実方は逃げてしまった、というエピソードです。この行成の態度にいたく感心した一条天皇は行成を蔵人頭にし、対する実方はこの行動から陸奥国へ左遷されてしまった、というオチ。

これは「十訓抄」や「古事談」に載っている話ですが、実際は異なります。行成の昇進は源俊賢の推挙によるものであり、実方の陸奥守赴任はむしろ昇進といえるもの。行成の日記「権記」の長徳元年9月27日の項にも、実方が正四位下に叙され、禄を賜ったことが記載されていますが、説話にあるようなもめごとは書かれていません。こういう出来事があったにせよ、ケンカに発展するようなことはなかったのでしょう。

しかし、このようなエピソードが後に書かれるということは、「冠を落とす」ことが普通は取り乱すほど恥ずかしいこと、という前提があってこそでしょう。

清原元輔は落馬で冠を落とすも、和歌で笑いを取る

続いては、清少納言の父で、後撰集の撰者として知られる歌人・清原元輔のエピソードです。

 『小倉百人一首』

清原元輔は、賀茂祭で奉幣使を務めていた際、落馬して冠を落とし、禿げ上がった頭を見た周囲の人々は笑ってしまいました。従者は慌てて冠を戻そうとしますが、当の元輔は冠を着用することもせず、周囲の公達に理由を事細かく説明してまわりました。

そのときの和歌が、

日のさしたるに頭きらきらとしていみじう見苦し

というもの。髻もない禿げ頭に日が差してピカピカ光って見苦しい、という内容で、この歌とともに落馬した理由、冠が落ちた理由をくどくどと説明しています。

このエピソードは「宇治拾遺物語」の巻第十三「元輔落馬の事」や、「今昔物語」にも載っています。冠が落ちて禿げ頭が晒され、自分よりもはるかに年若の公達に笑われても怒ったり恥ずかしがったりせず、周囲の笑いを取った、元輔の明るい性格がうかがえます。

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