15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(中) (2/3ページ)
作者不詳「保元・平治合戦図屏風」京都・神泉苑蔵
さて、大蔵合戦で義平が「鎌倉悪源太」の異名をとった翌・保元元1156年。京都では天皇陛下と上皇陛下の権力争いが武力衝突に発展、世に言う「保元の乱」が勃発しました。
この時、義平の父・義朝は天皇陛下にお味方して大活躍、勝利の後に「左馬頭(さまのかみ)」という官位をもらっていますが、義平が参戦した記録は残っていません。
恐らく義平は本拠地・鎌倉の留守を預かっていたものと考えられます。自慢の腕が奮えず、さぞや残念だったでしょうが、帰る場所を守るのも大事な務め。
むしろ「義平が鎌倉を守ってくれるからこそ、背後の心配なく思い切り戦える」のですから、義平がいかに武勇名高く、そして義朝からの信任篤かったか、がわかります。
源平格差・募る不満につけ込む輩京都・白峯神宮蔵 源為義肖像。息子・義朝に斬られる。
さて、保元の乱で大活躍、永年にらみ合っていた父・源為義(ためよし)らを倒してスッキリした義朝ですが、その後の待遇に不満がありました。
保元の乱では源氏も平氏も一族の中で敵味方に分かれて戦いましたが、敗れた者の処分は、源氏は重く、大ぜいが処刑された一方で、平氏は比較的軽く、処刑された者もそれほど多くありませんでした。