実は4度も名前を変えていた徳川家康。家康はなぜ「松平」から「徳川」に改姓したの?

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実は4度も名前を変えていた徳川家康。家康はなぜ「松平」から「徳川」に改姓したの?

4度も名前を変えた「徳川家康」

徳川家康といえば、おそらく日本では知らない人はいない、江戸幕府を開いた初代将軍です。そんな彼、実は何度も名前を変えているということをご存知でしょうか?

徳川家康肖像画/Wikipedia

天文11(1542)年12月26日に誕生した徳川家康は、幼名を竹千代といいました。そして今川義元の人質として駿府にいた時に 14歳で元服し、松平元信と名乗りました。

その後、祖父である松平清康の「康」の字を取って元康と改名し、元禄3(1560)年の桶狭間の戦いを機に家康と名乗るようになりました。さらに元禄9(1566)年には、名字までも松平から徳川に改めています。

当時の武家社会では、同じ人が一生のうちに何度も名前を変えることが珍しくはありませんでしたが、家康は実に4回も名前を変えていたのです。

いったいなぜ家康は、最終的には名前だけでなく名字までも変えたのでしょうか?

「素性がはっきりしない」という理由で国主になれなかった家康

徳川家康の父・松平広忠は、現在の愛知県岡崎市にある三河岡崎城の城主でした。その嫡男として生まれた家康は、6歳の時に織田信長の父である信秀の人質となり、さらに今川義元の人質とされたこともありました。

彼に転機が起こったのは、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたことでした。「元康」と名乗っていた家康は、今川義元から1字取った「元」の字をを捨てて「家康」に改名し、いわば今川氏への服従関係からの独立を宣言したのです。

徳川家の家紋”丸に三つ葉葵(徳川葵)

さらなる改名(改姓)は、家康が24歳で三河守に任じられたときのこと。国主となるためには朝廷の許可が必要不可欠でしたので、家康も朝廷に「三河の国守に任じてほしい」との申請をしました。

ところが
「家康は氏素性がはっきりしないし、先祖に国主となった者もいないではないか」
という理由で断られてしまったのでした。

家康、名字を変えて三河守に!

そこで家康は、問題となった自分の氏素性を「きちんとしたもの」にして、なんとしても朝廷に自分を国主として認めてもらおうとします。

彼は摂関家の近衛前久(このえまえひさ)に依頼し、古い記録から

松平氏の祖とされる世良田義季が『得川氏』を名乗っていた 新田氏系の『得川氏』が『藤原』の姓を名乗ったことがある 家康の先祖が住んでいた徳河郷にちなんだ『徳川氏』は、元々は源氏の家系で、総領家は途中で藤原氏になった

という系図(真偽のほどは不明)を探させ、清書した上で朝廷に提出させました。おかげで家康は、彼個人のみという条件で「徳川」へ改姓(復姓)することが認められ、晴れて従五位下・三河守に任じられたのでした。

天下人たちはその地位を正式に認めさせるためなら、名前を変えることすらいとわなかったようですね。

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