追悼・輪島 黄金の左で投げ飛ばした波乱万丈70年(2)強面の若い衆が取り囲んで… (2/2ページ)
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週刊アサヒ芸能 2018年 10/25号
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慣れない『新弟子』の輪島は、横綱時代のクセが抜けきれず、荷物を置いてそのまま移動しようとしたり、料理の際には石川に注文を頼んだりしたが、それをたしなめ、一兵卒から徹底的に仕込んで、デビュー後もタッグパートナーを務めていた。プロレス生活は2年ほどでしたが、引退する際も輪島と石川は同時期にしたほどで、まさに先輩後輩を超えた間柄だった」(プロレス記者)
わずか2年ほどでプロレスを引退後、浪人生活を送っていた輪島に助け舟を出したのも日大相撲部の1年先輩であった田中英寿氏。現在は日大の理事長で、一連の「アメフト部の不祥事」で、その責任を問われつつも最後までマスコミの前に姿を現さなかった「日大のドン」その人である。
「自分はプロに行きます、先輩はアマチュアで頑張ってください」
これは輪島が大相撲入りする際の有名なセリフで、廃業後には、アマチュアスポーツの世界から声がかかっていたが、これも全て田中氏の人脈を頼って実現したものばかりだった。
「学生援護会がアメリカンフットボールチームを創設した91年に総監督に就任したのも、日大アメフト部の監督だった篠竹幹夫氏を田中氏が紹介したのがきっかけ。さらにはアマ相撲のキューバナショナルチームの監督の仕事も、田中氏の紹介で決まったほどでした。プロレス引退後、バラエティー番組などでも活躍したものの、徐々に仕事が減っていた輪島にはありがたかったはずですよ」(スポーツ紙デスク)
破天荒な人生を送った輪島を、あしざまに言う人はあまりいなかった。いや、むしろ天真爛漫なキャラクターは誰からも愛されたのだ。好角家の漫画家、やくみつる氏も言う。
「いろいろ問題を起こしたが、相撲界を離れてからも仕事を紹介したりする人がいたのは、天真爛漫なキャラクターゆえではないか。私も一度対談したことがあるが、魅力ある人でした」