美しき女武者!木曾義仲と共に戦いその最期を語り継いだ女武者・巴御前の生涯(下) (4/5ページ)
そう言うなり追手の方へと馬を馳せ、豪傑として知られた敵将・恩田八郎師重(おんだの はちろうもろしげ)と一騎討ちに臨み、師重を馬から引きずり落とすなり首級を叩き落としました。
そして巴は唖然とする敵勢を前に鎧や兜を脱ぎ捨て、東の方角へと走り去っていったそうです。
これまで義仲を守ることこそ戦う理由であった巴にとって、義仲の元を去る以上、戦う理由はなくなります。
戦いの象徴である鎧や兜を脱ぎ捨てたことは、巴の引退表明だったのでしょう。
この一騎討ちを最後に、巴が武勇を奮うことはなくなりました。
巴が去った後、義仲は間もなく討ち取られました。享年31歳。
その後、巴御前はさて、義仲の元を去った巴がその後どうなったか、は諸説あります。
義仲の菩提を弔うために出家して尼となったとか、あるいは木曾方の残党として捕らわれ、鎌倉に連行されたところ、一目惚れしてしまった和田太郎義盛(わだの たろうよしもり。頼朝公の御家人)の側室にされて男子をもうけたとか。
この男子こそ、後に豪傑として知られる朝比奈三郎義秀(あさひなの さぶろうよしひで)。素潜りでサメ3匹と格闘して陸まで担ぎ上げたり、一晩で峠の道(現:鎌倉七口の一・朝夷奈切通)を開通させたり……。
おそらく、その怪力ぶりから「巴御前の子供じゃなかろうか」という噂が立って、それが独り歩きしたのかも知れません。
その義秀と、夫?である義盛は、鎌倉幕府の執権・北条一族との政争に敗れ、和田合戦(建暦三1213年5月2~3日)で討死します。もし義盛の側室になっていたとすれば、巴は又しても伴侶を失ったことになります。
いずれにしても和田合戦の後、越中国礪波郡福光(現:富山県礪波市)の豪族で義仲の旧臣・石黒氏に身を寄せ、主君であり伴侶でもあった義仲をはじめ、死んでいった一族や仲間たちの菩提を弔う日々を送ったということです。