縁切り寺という強硬手段!妻からの離婚はかなり難しかった江戸時代の離婚事情 (2/2ページ)

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そこで妻は無理やり夫に三行半を書かせ、それをもぎ取っていきました。なかには最初から離婚を想定し、「先渡し離縁状」を夫に書かせたうえで結婚する、という強かな女性もいたようです。

どうしても離婚できないときは「縁切寺」へ

どうしても夫が三行半を書いてくれない場合、妻は代官所や武家屋敷に駆け込んで離婚を訴え出るということもありました。それでも離婚できないときは、縁切寺へ駆け込むという強硬手段が認められていました。

縁切り寺にGO!江戸時代、女性から離婚したい時に離縁させてくれるお寺があった

江戸時代において、幕府が公認していた縁切寺は、鎌倉の東慶寺と上州新田(群馬県)の満徳寺という二つの寺でした。

夫は入れずむやみに連れ戻すこともできない縁切り寺

妻が縁切寺へ向かえば、それを阻止すべく夫が追いかけてきます。もし妻が寺へ入る直前で捕まってしまっても、その前に妻の持ち物、例えば草履やかんざしなどを寺の敷地内に投げ入れれば、寺に入ったとみなされました。妻が寺に入ったとみなされれば、夫といえども寺の敷地内に入ることはできず、むやみに連れ戻すこともできませんでした。

満徳寺の駆け込み門(Wikipediaより)

ただし、妻が無事に駆け込んでも、それで離婚が成立するわけではありません。まず、寺側が双方の主張を聞いたうえで、調停を行いました。晴れて離婚が成立した場合、夫が三行半を書いて妻に渡しました。

もしも調停で離婚が成立しなかった場合、妻はそのまま尼として寺で生活します。東慶寺では三年間、満徳寺では二年経過すれば離婚が成立したのです。

江戸時代は、離婚が割と頻繁に行われていたため、夫婦の財産は別々になっていたようです。

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