サラエヴォの墓地は、かつてオリンピックスタジアムだった (2/2ページ)

心に残る家族葬



1991年、まずは地理的、経済的に最も西側に近かったスロヴェニアが独立、続いてクロアチア、そして1992年には、サラエヴォを首都とするボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言する。スロヴェニア、クロアチアに比べ、民族の混在率が高かったボスニアはの内戦は泥沼化し、約3年半の間に死者約20万人、難民・避難民約220万人が発生。第2次大戦以降、ヨーロッパで最悪の紛争となった。

■おびただしい数の死者を埋葬するために墓地と化したオリンピックスタジアム

ボスニア全土で繰り広げられた戦闘により、当然サラエヴォのオリンピック会場も破壊された。増大する死者により墓地が不足し、土地の多いオリンピック会場やサッカー場は全て墓地と化したのである。
1995年、ボスニア紛争は終結した。それ以後、五輪会場の一部は再建されたがほとんどは放置され廃墟と化する。その周辺にはおびただしい数の墓標だけが残り、ほとんどの墓石には、1992年から1995年の没年月日が記されている。


■カタリーナ・ヴィットの願い

カタリーナ・ヴィットは、サラエヴォ五輪後、1988年のカルガリー五輪でも金メダルを獲得し、五輪2連覇の偉業を達成する。その後現役を引退し、共産圏では珍しかったプロスケーターとなるが、1994年、プロ選手の参加が認められたリレハンメル五輪で3度目の五輪出場を果たす。

28歳のヴィットは体型も変化し、技術では若い現役選手たちに遠く及ばす、18歳の頃の輝きは失われていたが、有名な反戦歌「花はどこへ行った」に乗せたフリーで、戦闘の最中だったサラエヴォの現状を世界に伝えようとした姿は美しかった。

これからは、五輪会場が墓地になるような歴史が繰り返さない事を願うばかりである。



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