映画『翔んで埼玉』大ヒットに原作者・魔夜峰央が「30年前は反響もなかった」と驚き
いま劇場で大ヒット中の話題作、映画『翔んで埼玉』。いまから30年以上前に、この作品の原作漫画を執筆した魔夜峰央さん(66)に、自身の半生、『翔んで埼玉』誕生にまつわるお話を伺った。
「映画『翔んで埼玉』は、大変、面白かったですね。あのわずかばかりの原作を、よくここまで広げたものだと。
この漫画が生まれた経緯は、郷里の新潟から、最初は東京出るつもりだったのが、編集者に相談して連れていかれた先が埼玉県の所沢だった。すぐそばに当時の『花とゆめ』(白泉社)の編集長、もっと怖い編集局長が住んでいた。
要するに編集者の罠で引っ張っていかれたんですよね。ずっと見張られてる感じだったので、早く逃げ出したくてしょうがなかったわけですよ。脱獄するのに4年かかりましたが(笑)。そういう鬱憤が詰まってできた作品なのかなと思います。
『翔んで埼玉』の時代は、新人ではなかったですが、まだまだ若手の1人に過ぎない。編集長のほうが遥かに偉いですし、いざ所沢に住んでみて、すぐ引っ越すってわけにはいかないですよね。納得できる理由というか、ある程度してからでないと、それは言い出せない感じだった。良いところでしたけどね。周りには何もない……青い空とネギ畑しかなくて、住みやすいは住みやすかった。
この頃の『花とゆめ』の空気はご存じかどうか、萩尾望都、竹宮恵子という2人の天才がおりまして、この方たちが、少女漫画を20年先に進めちゃったんですよ。いきなり、ものすごく高いレベルに放り込まれたから、その頃に出てきた人たちは、いかに萩尾、竹宮に近いものを描くかで、みんな苦労していたと思います。私はその前からやっていたので、自分なりのテンポで描くことができましたが、漫画家が自分なりの少女漫画を、普通に描けるようになってきたのは最近じゃないですか?
やっと呪縛が解けたと言いますかね。お2人はもちろん、今も活躍されてますけれども、それぐらい偉大な2人だと思います。」
■30年前に描いた作品が、ポッと狂い咲きした感じですよね
「漫画を描き始めたきっかけは……もともと漫画が好きで、落書きはずっとしていましたし、高校生くらいから、ちゃんと描いてみようと思って練習を始めたんですね。今になってみると、中学生の頃に同級生の家に遊びに行ったとき、妹さんが読んでいた『週刊マーガレット』に触れて、たぶん、そこで初めて少女漫画の美しさに気づいたんだと思います。
それまでも、少女漫画を読んでなかったとは思えないんですけれども、だいたい私がもっと小さい頃の少女漫画は、“母子モノ”とか“お涙ちょうだいモノ”しかなかったわけです。それもほとんどが、女性じゃなくて男性が描いていたんですよね。ちばてつや先生、赤塚不二夫先生、石ノ森章太郎先生、手塚治虫先生だって。みんな男性が少女漫画を描いていたわけです。
初めて『週刊マーガレット』を見た頃から、やっと女性がメインで描き始めた。それでもそのキレイな世界観というのは、やっぱり男性の描くものとはまったく違っていましたから、そこに惹かれたんだと思いますね。その世界に触れて、それ以降の自分の漫画家人生に大きな影響を残したと思います。要するにキレイなものが好きで、美しいか美しくないかが私の判断基準になった。」
「『翔んで埼玉』を描いた経緯は詳しくは覚えてません。なんか変わったものを描こうと思って描いたというだけのことだったと思います。私は普段から打ち合わせはまったくしませんし、編集者の意図も入ってませんから。当時は反響も何もなかったですし、だから30年前に描いた作品が、ポッと狂い咲きした感じですよね。
映画は冒頭、最初に男性10人のバレエダンサーが真っ先に出てくるのですが、その真ん中で踊ってるのが息子で、それがハケると大きな白い花が飾ってあるテーブルで、私が羽ペンで漫画を描いています。その両脇で踊っているのが奥さんと娘です。家族全員で出ているのですが、ついでに言うと、『パタリロ!』にも出ています。両方の映画に出ているのは私たち家族と加藤諒クンだけなんですよ。」
魔夜峰央(まや・みねお)
1953年3月4日、新潟県生まれ。高校2年生時の夏休みから漫画を描き始める。73年秋の号「デラックスマーガレット」に掲載の『見知らぬ訪問者』でデビュー。78年から「花とゆめ」で連載開始した『パタリロ!』が100巻にわたるロングランヒットとなる。86年出版の短編集に収録されていた『翔んで埼玉』が話題となり、復刻出版されて大ヒット。映画化されることになった。